失われた物語 −時の扉− 《後編》【小説】
僕は男の問いに黙っていた
問いを思いつけるような
そんな意識の状態ではすでになく
毎日意識を保っているのが精一杯で
自分のほとんどの意志を放棄して
男娼という名の犬として
息をしていた
ただそれだけだったから
ただ起きたことをぼんやりと
眺めているだけ
「変わったやつだ…」
男は運ばれてきた赤ワインを
自分のグラスに注がせた
「酒は?」
アルコール
久しぶりだ
軽くうなづくと
男は僕のグラスにも注がせた
赤い血がグラスの中で踊った
僕はグラスを手にとり
一口飲んだ
熟成の効いた大人の酒の味がしたが
僕にはその価値はわからなかった
「お前を買った」
男が僕ではなく
彼の目の前のワイングラスを
見つめながらそう言った
僕は男をゆっくりと見た
男は椅子に深くもたれ
ひじ掛けに肘をつき
その手で額を支えながら
僕の視線に気づいて
こちらを見た
「ええ…」
僕は初めて口をきいた
「驚かないのか」
男は珍しく少し苦笑した
「みんな…買ってます」
男は笑った顔のままうなずいた
「そうだな…今まではみんなに買わ
れていた…お前の飼い主はずいぶん
羽振りが良くなったな」
男はまた遠くを見るように
僕から視線を外した
「だが…今日から主人は…俺だ」