失われた物語 −時の扉− 《後編》【小説】



800万

それが

僕の存在の値段

だった




男は僕の時間ではなく

存在自体を買い取った

僕の自由はすべて

金で買われた



男はある暴力団の幹部で

非合法薬物のこの地域の元締め

だった

僕の飼い主の薬の仕入れ先で

あいつはこの男に

頭が上がらなかった





大金で人身売買を…


あまりのことに

僕は二の句が継げなかった

あいつが今日ホテルで見せた

複雑な表情

あんな顔を見たことがなかった

あれの答えが

これだった




僕は男の言葉を聞き

戦慄に襲われていた



あいつに飼われていたのは

僕の心の隙と

クスリの効果と

禁断症状のせいだった

それは魂を抜かれるような

出来事だったが

悪魔に魂を売ったのは

誰でもない自分だった

堕落して戻るすべを見失っていた

それは事実だ

だが兄さえ探しだせば

兄さえ戻ってきてくれたら

僕は病院に行ってでも

警察に自首してでも

そこから抜け出しただろう


だが

これは違う

僕はこの男の所有物になったのだ

この寒気をもよおす殺気の持ち主の

所有物に

僕はこの男に囲われるのだ



僕の戦慄の理由はただ一つ

兄を受けとめられない

帰ってきた兄とすら

逢えないかもしれない

そのことだけ

だがそれは

僕の生きる意味のすべて




急に意識と思考が戻ってきた

僕は戦慄の中で考えた

逃げなければ

ここから

逃げなければ





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