もしも願いが二つ叶うなら…

【 決心 】

 鬱陶しい目覚ましの音で目が覚めた。
 色んなことが頭を駆け巡って、眠りにつけたのは朝方だった。
 顔を洗い、しっかりと目を覚ましてから、ケータイを手に取る。
 ずっと曖昧にしてきたこの気持ちに、もうそろそろ答えを出さなければならない。

 |《今日の営業後、時間ある?》

 そうタカユキにメッセージを送り、いつも通り仕事場へと向かった。
 出勤してすぐにタカユキに理由を聞かれたが、「あとで」と濁した。
 営業中も、その話題にはあえて触れなかった。
 ……いや、触れられなかった。
 それどころか、目の前の仕事に追われるようにして、ただひたすら時間が流れていった。
 そして――あっという間に営業終了の時刻が訪れる。

「話したいことがあるの」

 そう告げ、タカユキを店の近くにあるカフェへ連れてきた。

「……話って、何?」

 何かを察しているのか、タカユキの声はいつもより穏やかだった。
 だけど、その優しさが、胸に痛く突き刺さる。

「あの……私……」

 心の中ではもう決まっている。
 でも、それを言葉に乗せるのが、怖くてたまらなかった。
 タカユキは、少しだけ首を傾げて、優しく問い直す。

「何かあった? ちゃんと言って?」

 そのひと言で、張り詰めていた何かが崩れた。
 これを言ったら、私たちはもう――他人になってしまう。
 でも、それでも……言わなければいけなかった。

「好きな人ができたの」

 言葉にした瞬間、なぜか涙は出てこなかった。
 ただ、胸の奥がポッカリと空いたような感覚だけが残った。
 もしかすると、私はただ、恋に恋していただけだったのかもしれない。
 夢を見ることだけで満足して、愛も恋も、本当はよくわかっていなかったのかもしれない。
 そもそも、永遠の愛なんてものが本当に存在するのかすら、わからない。
 静まり返った空間のなか、ふとタカユキに目をやると、彼は俯いたまま、ぽつりと呟いた。

「……何となく、気づいてたよ。でも、ちゃんと話してくれて……ありがとう」

 その作り笑顔を見た瞬間、不思議とあふれてこなかったはずの涙が、止めどなく溢れ出した。
 ――嫌いになったわけじゃない。
 それでも、好きだけじゃ続かないこともある。
 このまま想いを偽って付き合い続けていたら、きっとタカユキをもっと傷つけてしまう。
 今までは、追いかけられる恋を選んでいた。
 それが、どこか安全だったから。
 でも今は、自分でも制御できないほど――あの人のことが、頭から離れない。

「ずっと一緒にいよう」

 あの約束は、嘘になってしまった。
 好きだった。
 幸せだった。
 感謝してる。
 でも――こんなズルい私で、本当にごめんなさい。
 そして、
 さようなら。
 
 その日は家に着いてからも泣き続け、気がつけば、いつの間にか眠りに落ちていた。
 目が覚めて鏡の前に立つと、目元はパンパンに腫れ、髪はひどく乱れていた。
 整える気力も湧かず、ニット帽とメガネで無理やり顔を隠して出勤することにした。
 ――一番乗りのはずなのに。
 そう思いながら店の前に立つと、すでに中の電気が点いている。
 そっとドアを開けて中へ入ると、朝練習に励むタカユキの姿が見えた。

「おはようございます……」

 ぼそりと呟くように声をかけると、彼はウィッグを整える手を止め、明るく顔を上げた。

「おはよう!」

 まるで、昨日の別れ話などなかったかのような明るさだった。
 けれど、その笑顔が無理をしていることはすぐにわかった。
 
 チカはその空気に耐えきれず、逃げるように休憩室へ向かった。
 するとその背中に、タカユキの声が響いた。

「俺なら大丈夫! これからも同期として頑張ろうな!」

 振り返らずに「ありがとう」とだけ返した。
 それが彼の本心なのかどうかは、正直わからない。
 けれど――素直に、嬉しかった。
 気まずさを覚悟していた日常に、あたたかな灯が灯った気がした。
 きっとタカユキは、私の不安に気づいてくれたのだろう。
 ほんとうなら、嫌われても仕方がないはずなのに。
 それでも彼は、“同期”という関係に優しさで橋を架けてくれた。
 仕事終わりの帰り道、ふと頭の中に浮かんだ。
 ――人は生きている間に、いくつの“願い事”をするのだろう?
 その中のいくつが、ほんとうに“叶う”のだろう?
 何度、大切な人を“想い”、どれだけの想いが“届く”のだろう?
 願うだけでは、叶わない。
 想うだけでは、届かない。
 そんな風に考えていた時――

「チカ!」

 突然、後ろから聞き慣れた声がした。
 振り返ると、ジュンが小走りで近づいてきた。

「ちょっと付き合え」

 言われるがまま、近くの居酒屋へと連れて行かれる。

「ジュンジュン、いらっしゃい! 今日は彼女連れかい?」

 陽気なおばちゃんの声に、ジュンは肩をすくめて笑った。

「だといいんだけどね。職場の後輩!」

 チカは照れくさそうに笑ってお辞儀した。
 席につくなり、ジュンはタバコに火をつけ、煙の向こうから唐突に切り込んできた。

「聞いたよ。タカユキと別れたんだろ?」
「……はい」

 昨日の記憶が一気に蘇りそうになる。
 その前に、ジュンがさらに核心へと踏み込んできた。

「ケンのこと、好きなんだろ?」

 気づかれているとは思っていた。
 でも、実際に言葉にされると、うなずくしかできなかった。

「……あいつの傷は、普通の傷とは違うんだ」

 ジュンの言葉に、チカは静かに耳を傾けた。

「もし外傷なら、時間が経てば痛みも引くし、薬を塗れば治る。でも心の傷ってやつは、そうはいかない。時間が経っても消えないし、薬なんてない。唯一あるとしたら、それは――人からもらう“愛”だけだ」

 その一言が、チカの胸に強く響いた。
 折れかけていた心に、そっと触れるような優しさだった。

「人はな、歳を重ねるたびに臆病になってくる。経験が邪魔するんだよ。けどな、忘れるなよ。臆病ってのは、“絶対に治る病気”だから」

 ジュンの言葉は、臆病になっていたチカの心に、静かに、そして確かに、灯をともしていった。
 そして――
 その灯はやがて、強い決心へと姿を変える。
 この想いは、変わらない。
 あなたに届く、その日まで――。
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