もしも願いが二つ叶うなら…

【 宿した傷痕 】

【2006年2月14日(火)】
 
 今日は、ユウカちゃんが待ちに待った退院の日。
 そして、女の子にとって特別な一日でもある。
 ――大切な人に、想いを伝える“きっかけ”をもらえる日。
 きっと伝わる。
 心に届く。
 願いは叶う。
 ……そう信じて。
 まだ肌寒さの残る朝だったけれど、窓から差し込む太陽の光が、それを忘れさせてくれるような、穏やかな天気に恵まれた。
 時刻は午前9時。
 病室のドアをノックすると、明るく元気な声とともに、勢いよく扉が開いた。

「お姉ちゃん!」

 ユウカは両手を広げて、まっすぐチカに飛びついてくる。

「退院おめでとう!」

 チカは持っていた花束を手渡しながら、柔らかく微笑んだ。

「ありがとう!」
「これは“スズラン”っていう花でね、花言葉は“幸福の訪れ”なの。ユウカちゃんにぴったりだと思って!」
「うん、すっごくいい香り!」
「それから、これも退院のお祝いに。プレゼント!」

 チカは可愛くラッピングされた小さな箱を取り出し、そっと差し出した。

「ありがとう! 開けてもいい?」
「もちろん!」

 ユウカが丁寧に包み紙を剥がしていくと、中からキラキラと輝くラインストーンが散りばめられた、可憐なヘアアクセサリーが現れた。

「可愛い!」
「髪、だいぶ伸びちゃったでしょ? 私がカットできるようになるまで、それで束ねててね」

 チカはユウカの髪を優しく撫でながら、温かな笑みを浮かべる。

「大切にするね!」

 そう言って、ユウカも嬉しそうに頷いた。
 しばらくすると、病室のドアがノックされる音が響き、チカの体が自然と反応する。
 ユウカは軽やかに跳ねながら、ドアへと駆け寄っていった。

「ママ!」

 その呼び声に、チカはすぐさまソファーから立ち上がり、深々とお辞儀をした。

「はじめまして」
「はじめまして。あの……どちら様でしょうか?」

 戸惑うように尋ねたユウカの母親に、ユウカは得意げな表情で答える。

「お姉ちゃんはね、ケン兄のお友達!」
「そうでしたか。いつもユウカがお世話になっております」

 チカが丁寧に頭を下げると、ユウカは手にした花束とヘアアクセサリーを嬉しそうに掲げて見せた。

「お姉ちゃんからもらったの! お花とプレゼント!」
「わざわざありがとうございます」

 簡単な挨拶もそこそこに、ユウカの母親は素早く荷物をまとめ始めた。

「ママ、これから退院手続きしてくるから、荷物の片付けよろしくね!」

 そう言い残し、母親は一礼して病室を後にした。

「私も手伝おうか?」

 チカがそう声をかけながらソファーに腰を下ろすと、ユウカは首を横に振った。

「大丈夫!」
「そっか。……じゃあ、私はそろそろ行こうかな。ケン君が来ちゃいそうだし……」

 そのひと言で、片付けをしていたユウカの手がぴたりと止まった。

「ケン兄と、何かあったの?」
「全然! 何にもないよ!」

 慌てて両手を振りながら笑ってごまかすチカ。
 でも、その笑顔の裏に隠された複雑な想いを、ユウカが気づいていないはずもなかった。
 すると突然、ユウカがチカの背後を指差しながら、クスクスと笑い出した。
 不審に思いながらゆっくり振り返ると、そこには――ケンの姿があった。

「……っ!」

 思わず息が詰まり、言葉にならない声が喉で止まる。
 視線が合った瞬間、チカの顔はみるみる赤く染まり、心拍数が急上昇する。
 気まずさと動揺を誤魔化すように、チカは慌ててユウカに目を向けた。

「これ……私の連絡先。メールしてね!」

 そう言って、事前に用意していた小さなメモ用紙をユウカの手に押しつけると、チカはそそくさと病室を飛び出した。
 俯いたまま、足早に廊下を抜け、外の冷たい空気を吸い込む。
 震える手を胸に当てると、心臓がドクドクと激しく鼓動していた。
 ――ちゃんと、話したかったのに。
 せめて、少しだけでも笑っていたかったのに。
 後悔を抱えたまま、院内のベンチに腰を下ろし、深く息を吐いた。
 チカが嵐のように去った後、ユウカの母親が病室へ戻ってきた。

「ケンさん! お久しぶり!」
「お久しぶりです。もう手続きは終わりましたか?」
「ええ、ちょうど今終わったところ。これから荷物を車に積むから、ユウカの相手、お願いね」

 そう言って上着を羽織り、大きな荷物を抱えて慌ただしく病室を後にする。
 静けさが戻った室内で、ケンはソファに腰かけたユウカの横顔をちらりと見る。

「ユウカ、あの子に変なこと言ってないよな?」

 窓の外をじっと見つめていたユウカが、ふと小さく口を開いた。

「ねえ、ケン兄?」
「ん?」
「お姉ちゃん、ケン兄が私にしてくれたことと、同じことしてるよ」
「……?」
「ケン兄が私に、諦めないで“待って”くれたみたいに、お姉ちゃんもケン兄が振り向いてくれるのを、ちゃんと信じて待ってる」

 その言葉に、ケンの表情がわずかに揺らぐ。
 ユウカの視線の先――
 それは、病院の入口で寒そうに手を擦りながらも、じっと動かず何かを待ち続けるチカの姿だった。

「きっと、あの人は心の綺麗な人だよ。人の苦しみも、悲しみも、一緒に背負って、一緒に泣いてくれる。……あとは、ケン兄が、ちゃんと振り向いてあげるだけなんじゃない?」

 その優しい声が、ケンの胸の奥深くに静かに届く。
 ――わかってる。
 世の中には、拒絶する人もいれば、そっと手を差し伸べてくれる人もいる。
 そのことに、ずっと前から気づいていた。
 気づかないふりをしている、自分自身がいることにも。
 でも――怖いんだ。
 また、自分のせいで誰かが傷ついてしまうのが。
 誰かの未来を、自分が壊してしまうのが。
 許せない。
 過去のあの日。
 あのときの自分を。
 あのメイクが――命を奪ったことを。

「……教えてくれ、アヤカ」

 心の中で問いかける。
 ――俺が選んだこの道は、本当に……正しかったのか?
 
 30分ほどが過ぎ、チカの手はすっかり冷えきっていた。
 ようやく、病院の入口からケンらしき人影が現れる。
 その姿はゆっくりと正門へと歩を進めていた。
 慌てて近くの木陰に身を隠すと、足音は正門で止まった。
 そっと木の陰から覗くと、ケンは清々しい顔で青く澄んだ空を見上げている。
 ――なんだろう、この感じ。
 どこか穏やかで、少しだけ微笑んでいるようにさえ見えた。
 その横顔につられるように、チカもそっと空を仰いだ。
 美しい木漏れ日が、やさしく彼女の頬を照らしている。

「……しつこいな、君は」

 不意に、その低く柔らかな声が風に混じって聞こえてきた。
 一瞬でチカの視線が正門へと戻る。
 ケンは相変わらず空を見上げたまま、こちらを見ようともしない。
 ――見つかってた。
 完全に隠れたつもりだったのに。
 観念したように、チカは木陰から姿を現した。

「しつこいって思われてもかまいません。ジュンさんは“あいつは自分を守る言葉を知らない”って言ってたけど、私は違うと思う」

 不思議と、強気になれていた。

「ケン君はちゃんと自分を守ってる。“自分の過去は、誰にも受け入れられない”って、そう思いながら怯えてるだけじゃないですか?」
「俺の何がわかるって言うんだ」

 ケンの声が少し荒くなる。
 けれど、チカはまっすぐ彼を見つめたまま、言葉を返した。

「わかりません。でも、だからこそ知りたいんです。もっと、あなたのことを――」

 その言葉は、まるで反射のように飛び出した。
 ぶつかって、壊れてしまいそうな緊張感のなかで。

「……ジュンみたいなこと言うんだな」

 ケンが小さく笑ったように見えた。

「え……?」

 不意に言葉を切られ、チカが戸惑っていると――

「今、時間ある? ……腹、減った。飯でも行かないか?」

 それは信じられないくらい自然な口調だった。
 でも確かに――ケンの“心”が、ほんのわずかに、チカの方へ開いた瞬間だった。
 
 言葉には、ちゃんと意味がある。
 それは辞書の中にある定義なんかじゃない。
 人と人を結ぶ、目には見えない絆のようなもの。
 時に人を傷つけ、すれ違い、誤解されることもある。
 だけど、たとえありふれた言葉でも――想いが宿っていれば、それはきっと届く。
 まだ、すべてを理解できたわけじゃない。
 心の奥にある深い溝を、完全に埋められたわけでもない。
 でも。
 転んでしまったのは、前に進んでいたから。
 苦しんでいるのは、必死に闘っているから。
 痛みを感じるのは、ちゃんと“生きている”証だから――
 もし、その傷が今も疼いているのなら。
 私は、あなたの包帯になりたい。
 もう二度と、深い傷が広がらないように。
 これ以上、悲しい涙が溢れないように。
 あなたの心に、そっと触れる――
 そんな存在に、なれたなら。
 
 カフェを出た帰り道、チカはケンの広い歩幅に合わせて少し早足になる。
 さっきまでは向かい合っていたけど、今はあなたの背中をただ追いかけていた。
 パスタの味も、どんな会話をしたのかも、正直ほとんど覚えていない。
 嬉しかった。けれど、緊張と後悔の入り混じったような気持ちが胸を締めつける。
 そんな中、不意にケンが足を止めて振り返った。

「休みなのに、彼氏と会わなくていいの?」

 その一言に、チカの中で忘れかけていた罪悪感がふいに蘇る。
 それでも、まっすぐ答えた。

「彼氏とは別れました」
「どうして?」
「愛する人に、愛されなきゃ意味がないから」

 ほんの少し、覚悟を込めて言った言葉だった。
 けれど――反応はない。
 視線すら合わず、ケンはまるでその想いに気づかないかのようだった。

「それで暇になったから、俺の後を追い回してるってわけ?」
「追い回してるわけじゃありません。ただ偶然が、ちょっと……続いただけです」

 ふてくされたように口を尖らせて言ったあと、小さく呟いた。

「……連絡先、教えてもらえませんよね?」

 しばらく沈黙が続いた。
 横目でケンの表情を探ると、その唇がふいに動く。

「“ひらがな”を作った人ってさ。なんで“あ”で始まって、“ん”で終わらせたんだろうな」

 突然の問いかけに、チカは一瞬きょとんとした顔になる。
 ――え、なにそれ。
 戸惑いながらも、大きく息を吸い込み、頭をフル回転させて考えてみる。
 でも、やっぱり答えは出てこない。

「もしもわかったら。ジュンから、俺の連絡先を教えてもらっていいよ」

 そのまま歩き出したケンの背中を、驚きと戸惑いが入り混じった気持ちで追いかける。
 答えを考える間もなく、気がつけば駅に着いていた。

「じゃあ俺は病院にバイク停めてあるから、ここで」
「カフェから病院と駅って逆方向なのに、わざわざありがとうございます」

 その何気ない優しさが、チカの胸に温かく染み込んでいく。
 冷たい風が吹いていたはずなのに、心の中にはほんのりとした温もりがあった。
 結局、連絡先はもらえなかった。
 でも、それでも――今日は前より少しだけ近づけた気がする。
 “答えがわかれば教える”
 たぶんそれは、ただのクイズじゃない。
 何度も頭の中で問いを繰り返す。
 なぜ「ひらがな」は、「あ」で始まり、「ん」で終わるのか。
 意味があるのか、ないのか。
 それとも、意味を見つけ出すことが、彼の言いたかったことなのか。
 ベッドに入っても、その問いが頭から離れない。
 何かに似てる――
 そう、まるで“心”みたいだ。
 始まりがあって、終わりがある。
 でもその間には、数えきれない言葉がある。
 たったひとつの“あ”から、すべてが始まるように。
 “ん”で終わることを恐れずに。
 また“あ”から、始められるように――。
 
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