もしも願いが二つ叶うなら…
- 第五章 ( 繋がり ) -

【 溶けだす結晶 】

 今朝の天気予報は大きく外れ、夕方から降り出した雪は、この時間になってもなお降り続いている。
 夜練習の準備は始めたものの、どうしても気持ちが乗らず、チカはセット面の椅子にへたり込んだ。
 あなたの心に、少しだけ踏み込んでみた。
 けれど、そこは暗く、何ひとつ見えなかった。
 どの方向へ進めばいいのかもわからない。
 この微かな光じゃ、深い闇のなかであなたを見つけることなんて、できないかもしれない。
 ――それでも、探し出したい。
 声にならない声で助けを呼ぶ、あなたを。
 必死に手を伸ばし続ける、あなたを。
 たとえこの手の光が、頼りなく震えるほど微かなものであっても――
 必ず、あなたを照らしてみせる。

「何かあった?」

 不意に現実へ引き戻された。
 隣にいつの間にか座っていたミサキが、こちらを覗き込んでいる。

「……何でもない!」
「ならいいけど。そういえばさ――」

 ミサキの話し声は、右から左へと風のように抜けていく。
 そのときだった。慌ただしい足音がフロアに響いた。
 ジュンが、急ぎ足で休憩室から出てきたのだ。
 ――また、通話か。
 この店舗では休憩室の電波が弱く、通話の際はスタッフがフロアまで出てくるのが日常の光景だった。
 メールはできても、通話は音声が乱れてまともに話せないからだ。

「もしもし、どうした?」

 通話相手はわからない。
 けれど、ジュンの声色は明らかに、いつもとは違っていた。

「えっ? ……うん……」

 口調も、表情も、どこか深刻そう。
 チカはすぐにその異変に気付いた。

「……わかった、すぐ行く」

 電話を切ったジュンは、すぐさま慌てた様子で荷物をまとめはじめた。

「何かあったんですか?」

 チカは不安を押し殺しながら、そっと尋ねた。

「……ちょっとな」

 そう答えたジュンの顔には、隠しきれない動揺が滲んでいた。
 その様子に、胸がざわつく。
 ただごとではない――チカの直感がそう告げていた。

「教えてください。何があったんですか?」

 チカの問いに、ジュンは口元を強張らせたまま、声を震わせながら答えた。

「……ケンのばあちゃんが倒れた」

 その言葉を聞いた瞬間、チカの胸に嫌な想像が一気に広がっていく。
 頭の中で、冷たい結晶のような不安が、ゆっくりと解け出していった――。

「私も連れていってください。……心配なんです」
「わかった。すぐに準備してくれ。俺は外でタクシーを捕まえてくる」

 ジュンの言葉にうなずいたチカは、急いで荷物をまとめ、二人でタクシーへと飛び乗った。
 車が動き出して間もなく、ジュンはどこか遠くを見るような目でぽつりと呟く。

「ケンのばあちゃん、昔から心臓が悪いんだ……」

 その一言で、チカの胸がざわついた。
 喉の奥がぎゅっと締め付けられ、鼓動が早くなる。
 でも、今は冷静にならなきゃ――。
 深く息を吸って、チカは震える手を強く握りしめた。
 病院へ着くや否や、二人はタクシーから飛び降り、駆け足でロビーへと向かう。
 受付で病室を聞き出し、階段を一気に駆け上がると、ジュンが病室のドアを勢いよく開け放った。

「ケン! ばあちゃんは――!?」

 そこには、ベッドの傍らで静かに腰をかけるケンの姿があった。
 その横顔はどこか穏やかで、ホッとしたように微笑んでいた。

「大丈夫。……いつもの発作だった。少ししたら目を覚ますって」
「……よかった……」

 ジュンは大きく息を吐き、安堵の色が顔に戻っていく。
 チカも胸の内に広がっていた不安が、ゆっくりと静まっていくのを感じた。

「君も来てくれたんだな。ありがとう」

 ケンがチカに気付き、やわらかな声をかける。
 普段よりも少しだけ弱々しくて――でも、その分だけ優しかった。
 そのとき、病室の扉がノックされ、看護師が顔を覗かせた。

「失礼します。少し、よろしいでしょうか?」

 ケンはうなずくと、静かに席を立ち、看護師とともに病室を出ていった。

「……ほんと、何事もなくてよかったな」

 ジュンが大きく息を吐き、ベッドに視線を落としたまま呟く。
 その目の奥には、安堵だけではない、別の感情が滲んでいた。
 ――もしも、何かあったら。
 ケンがたったひとりになってしまう。
 きっとそれを恐れているのは、ジュンも同じだ。

「……ちょっと、夜風に当たってくる」

 そう言い残してジュンも病室を出ていき、残されたのは、チカとおばあちゃん――はじめて顔を合わせる、ふたりきり。
 静かな室内に、機械のかすかな音が響く。
 チカはベッドに目を向けた。
 首元で、かすかに揺れているものが視界に入る。
 ――ケン君と同じ、ゴールドのネックレス。
 その瞬間、ぴくりと微かに動いた。
 微動だにしなかったおばあちゃんの体が、わずかに揺れたのだ。
 そして、閉じていたまぶたが、ゆっくりと開いていく。
 薄く開かれたその瞳に、ようやく意識の光が宿った――。

「……あなたは?」

 その声は、風に揺れる枯れ葉のように弱々しかった。

「あの、私はケン君の友達で。今、呼んできますね」

 そう言って病室を出ようとしたチカを、おばあちゃんの声が呼び止めた。

「いえ、大丈夫よ。……すぐに戻ってくるだろうから」

 ベッドに横たわったまま、窓の外を静かに見つめるその視線は、何か遠い記憶を追いかけているようだった。

「……こんな日に倒れてしまうなんてね。思い出したくない日だろうに……」

 まるで独り言のように、ぽつりとこぼした。
 ――思い出したくない日?
 その言葉の意味を問い返そうとしたその瞬間、病室のドアが開いた。
 ケンとジュンが戻ってきたのだ。

「ばあちゃん! 大丈夫か? 苦しくない?」

 ケンの声はわずかに震えていた。
 唇を強く噛み締め、何かを堪えているような表情。
 ナースコールを押したあとも、ずっと彼はおばあちゃんの手を離さなかった。
 その姿が、どこか子供のようにも見えて――
 けれど、切なさではなく、温かさが滲んでいた。

「2、3日は入院して、様子を見ていきましょう。ご家族の方は、今日はお帰りになられて結構ですよ」

 医師の言葉に、強張っていたケンの表情がようやく和らいでいく。

「ばあちゃん、また明日来るから」

 寂しさをにじませたケンの声に、おばあちゃんは静かに頷いた。
 病室を後にし、外へ出ると、いつの間にか雪は止んでいた。
 積もった雪が、足元でギシッ、ギシッと小さく音を立てる。

「送っていく」

 ケンの声は、いつもよりどこか柔らかく聞こえた。

「ここで大丈夫です。ちょっと……寄りたいところがあるので」

 チカはそう答え、病院の入口でケンとジュンを見送った。
 けれどそのまま足を止めず、静かに病院の中へと引き返す。
 ――どうしても、確かめたいことがあった。
 受付にいた看護師に「忘れ物をしてしまって……」と苦しい嘘をつきながら、病室の前で足を止めた。
 ノックをしてから、静かにドアを開ける。

「失礼します。……まだ、起きていらっしゃいますか?」

 ベッドの中で横になっていた体が、ゆっくりとこちらを向いた。

「あなたは……さっきの子ね」
「すみません。もう少しだけお話をしたくて……。ご迷惑じゃなければ」
「ええ、大丈夫よ。まだ眠れないものだから」
「……ひとつ、聞きたいことがあります」
「なにかしら?」
「さっき言っていた、“思い出したくない日”って……何のことですか?」

 おばあちゃんはしばらく黙っていた。
 そして、ため息をひとつ吐いたあと、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「今日はね……ある人の命日なの」

 ――命日。
 その言葉を聞いた瞬間、チカの中で何かが繋がる。

「……もしかして、それって……アヤカちゃんのことですか?」

 思わず口に出た言葉は、震えていた。

「……聞いたのね。あなたには……心を開こうとしているのかもしれないわね」

 そう言って、おばあちゃんは悲しげな瞳を窓の外へと向けた。

「今頃、向かっているはずよ。……行ってあげて」
「えっ?」
「ケンのもとへ」

 その言葉には、確かな何かが託されていた。
 場所を教えてもらったチカは、急いでタクシーに乗り込む。
 ――胸の中で何かがざわついていた。
 何かを知る覚悟と、何かを繋ぐ予感。
 雪は止んでも、心の中のざわめきは静まらないまま――。
 
 教えられた墓地の前に立ったものの、目の前に広がる静寂と暗闇に、チカの足はすくんで動けなかった。冷たい風が肌を刺す。
 ――どうしても、怖い。
 その時、聞き覚えのあるブーツの足音が、奥の方から静かに響いてきた。
 影が伸び、チカの影と重なったその瞬間――
 目の前に現れたのは、ケンだった。

「……どうして君がここにいる?」

 険しい表情。鋭い目つき。
 声は低く、どこか怒りを押し殺していた。

「そっ、それは……」
「この場所、誰から聞いた? ……ジュンか?」

 込み上げる感情を抑えきれず、ケンの声が一段と低くなる。

「……いえ。ケン君のおばあちゃんから……」

 その答えを聞いたケンの目が、一瞬わずかに揺れた。
 けれど、すぐに冷たい光に戻る。

「そんなに……楽しいか?」

 低く押し殺した声色が、恐怖を伴って響いた。

「人の……傷口を踏みにじるようなことをして、そんなに楽しいか?」

 チカは何も言えず、ただその場に立ち尽くした。
 胸が締めつけられ、言葉が喉に詰まる。

「どうして……責めないんだ?」

 ケンは歪むように、声を震わせた。

「俺は……アヤカを殺したんだぞ」

 ギリッ、と拳を握り締める音が聞こえた。
 その拳に込められた痛みが、怒りではなく、自責の念であることが痛いほど伝わってくる。

「そんなこと、ない……!」

 絞り出すように、チカは叫んだ。

「どうして俺だけが、生きてるんだ……?」
「……生きる意味だって、ちゃんとある!」
「なぜそんなことが言える? こんな俺に……」
「だって――私にとって、あなたは……大切な人だから」

 自分の口から出たその言葉に、チカ自身が驚いた。
 でも、それは確かな気持ちだった。
 ケンの目が見開かれる。

「……俺が、大切な人……?」

 その声はかすれ、雪の音にかき消されていく。
 再び静かに降り始めた雪が、空気に溶け込むように舞い落ちる中、ケンは崩れ落ちるように膝をついた。
 白く積もった地面の上に、彼のケータイが転がり落ちる。
 画面には、ひとつの写真が表示されていた。
 そこには、まるで時が止まったままのような――
 笑顔のアヤカがいた。
 ケンの瞳から、もう枯れ果てたと思っていた涙があふれ出す。
 その涙は、雪を溶かし、地面に静かに吸い込まれていった。
 心の中で、ケンは叫ぶ。
 ――ごめんな、アヤカ。全部、俺のせいだ。
 俺は、何もできなかった。
 お前が心の声で助けを求めていた時、俺は――
 何もしてやれなかった。
 なのに……どうして。
 どうして最後に、“ありがとう”だなんて。
 そんな綺麗な言葉を、俺にくれたんだ?
 “ありがとう”って伝えなきゃいけなかったのは、俺の方だったのに。
 お前は最後の最後まで、俺のことを考えてくれた。
 最後に、俺に……助けを求めていたのに。
 俺はそれに、気づいてあげられなかった。
 それでも――
 お前は、俺の言葉を信じてくれたんだよな。
 たった一人で、闘ったんだよな。
 そこに俺がいてやれたなら――
 きっと、こんなことにはならなかったはずだ。
 “一緒に強くなろう”
 “一緒に闘おう”
 あの時、そう言った。
 無責任な言葉だった。
 もしその言葉が、お前に勇気を与えたのだとしたら。
 そしてその勇気が、お前を死へと追い詰めてしまったのだとしたら――
 こんなに、悲しいことはない。
 辛かったよな。
 苦しかったよな。
 寂しかったよな。
 守ってやれなくて、ごめんな。
 アヤカ。
 “許してくれ”なんて、そんなことは言わない。
 ただ――
 縄で首をくくった、あの日。
 意識が遠のく中で、お前の声が聞こえた。
 “生きて”
 その瞬間、縄がぷつりと切れ、視界が真っ暗になった。
 病院のベッドで目を覚ました時、なぜか涙が流れていた。
 “なぜ生きているのだろう?”
 “生きていていいのだろうか?”
 わからなかった。
 ただ、確かにお前に命を救われたことだけは――わかっていた。
 だから俺は、決めたんだ。
 この生かされた命で、お前が闘ったように、俺も闘おうって。
 だけど――
 弱い俺は、それでもなお“生きていていい意味”を考えることから逃げて、ニューヨークへと旅立った。
 けれど――
 ニューヨークに行っても、お前は何度も俺を救ってくれた。
 そのたびに、俺は自分を憎んだ。
 忘れられたら、どれだけ楽だっただろう。
 忘れたい。
 忘れたいのに――
 なのに……。

「忘れたくない……!」

 写真に写る笑顔のアヤカに向けて、ケンは叫んだ。
 その声は、雪を降らせる静かな冬空へと、悲しみとともに溶けていった。

「アヤカちゃんは、ケン君の思い出の中でちゃんと生きています。ケン君が忘れないかぎり、ずっと……ずっと……」

 チカは、あふれそうになる涙をそっと微笑みで包み込んだ。
 その表情は、痛みを受け入れるように、優しく静かだった。
 消えることはない。
 消せないものも、ある。
 でも、それでいい。
 それを――私が、全て受け止める。
 溢れ出た思いも、こぼれ落ちた涙も、全部。
 私がすくいあげるから。
 まるで、凍りついていた雪が解け出すように。
 ケンは膝をついたまま、声にならない声で、天国にいるアヤカへ何度も、何度も謝り続けた。
 しんしんと、雪の結晶が二人の上に舞い落ちる。
 まるで、消えることのない悲しみをそっと癒すかのように。
 凍える冬空から、静かに舞い降りる白い雪。
 触れれば、消えてしまう。
 わかっているのに、それでも――触れてしまう。
 それでも、この手を伸ばす。
 優しく、そっと。
 ……たとえ、触れたその瞬間に、消えてしまうとわかっていても。
< 21 / 36 >

この作品をシェア

pagetop