もしも願いが二つ叶うなら…
病院に到着したチカは、敷地内にあるベンチへと腰を下ろす。途中で買ったミルクティーを一口飲みながら、ユウカの診察が終わるのを待っていた。
5分ほど経った頃、病院の入口からユウカが姿を現し、笑顔で手を振りながら駆け寄ってくる。
「お姉ちゃん! 久しぶり!」
「久しぶり! 目の調子はどう?」
返事を聞くまでもなく、その表情を見ればわかる。
「ばっちり!」
「なら、よかった!」
互いの近況を報告し合いながら、穏やかな時間が流れる。しばらくして、チカは気になっていたことを切り出した。
「ねえ、ケン君の首の傷……。何か知ってる?」
「首の傷? ……ああ、言われてみれば、そんなのあったかも」
ユウカは少し考え込み、ふいに思い出したように手を叩いた。
「もしかしたら、シノブちゃんが何か知ってるかも! この病院に来て、もう五年くらいになるから!」
「……どこかで聞いた名前」
「ほら! あそこの車椅子に乗ってる女の人。あの人がシノブちゃん!」
ユウカが病院の入口を指差した。
「あっ、あの子……!」
チカの記憶がよみがえる。以前、ミサキとケンを尾行して病院にたどり着いたとき、話したあの女の子だ。
――でも、あのときは車椅子になんて乗っていなかった。
しかも、今の方がずっと痩せている。
「シノブちゃん、ケン兄がこの病院にリハビリメイクしに来る数年前に、一度だけ見たことあるって言ってた。意識不明の状態で運ばれてきたって」
「……何があったんだろう?」
「わからない。でもね、少し前までシノブちゃん、ケン兄のことをすごく嫌ってた」
「どうしてだろう――」
チカは首をかしげながら、小さく呟いた。
「そろそろ行かなきゃ。首の傷のこと、シノブちゃんに聞いてみるといいよ!」
「ありがとう! 気をつけて帰ってね!」
ユウカを見送ったあと、チカはしばらくその場に立ち尽くしていた。けれど、胸の奥で何かが背中を押す。
――今しかない。
そう思い、意を決して彼女――シノブのもとへと歩き出した。
驚かせないように、ゆっくりと近づき、小さく声をかける。
「私のこと、憶えていますか?」
シノブは一瞬、きょとんとした表情を浮かべたが、すぐにその表情に柔らかさが戻る。
「ケンさんの……知り合いの方でしたよね?」
「はい。このあいだは、本当にごめんなさい」
「――いえ」
静かな時間が流れる。
「……あの、実はひとつ聞きたいことがあって。ケン君とは、どういう形で知り合ったんですか?」
チカの問いに、シノブは目を伏せ、少しだけ間を置いた。
「話せば……長くなりますけど。私には昔この病院で出会った親友がいました」
「“いました”って……今はもう、いないんですか?」
シノブは小さく頷き、わずかに震えた声で言った。
「いじめを苦に……自ら命を絶ってしまったんです」
――ドクン。
心臓が強く打った。
「それって……もしかして、アヤカちゃんのことですか?」
チカがそっと問いかけると、シノブは驚いたように目を見開いた。
「……ええ。知っているんですか?」
チカはゆっくりと頷いた。
その頷きに導かれるように、シノブは静かに語り始めた――。
* * *
この病院に通っていたアヤカとは、診察のあとによくお喋りをしていました。
同い年だったこともあって、何でも話せる間柄で……私にとって、唯一親友と呼べる存在でした。
けれど、ある日を境に――突然、彼女は病院へ来なくなってしまったんです。
看護師さんに尋ねても、「わからない」と言われるばかりで……。
数日後、病院の廊下でアヤカのご両親を見かけました。
その時、アヤカのお母さんは取り乱した様子で、泣きながら何度も叫んでいたんです。
――“あいつがアヤカを殺した”って。
その言葉が、私の胸に深く突き刺さりました。
どうしてもアヤカに何があったのか知りたくて、私は再び看護師さんに詰め寄りました。
すると、渋々口を開いてくれて……こう話してくれたんです。
「アヤカがメイクをして学校へ行ったことでいじめが酷くなり、それを苦にして自殺した」と。
そして、アヤカのお母さんが泣き叫んでいた“あいつ”――
それがケンさんのことだったなんて、その時の私は、知る由もありませんでした。
それから4年が経って。
ある日突然、ケンさんがリハビリメイクの担当として、この病院へやって来たんです。
最初は、何の感情も抱かなかった。ただの外部スタッフのひとり、くらいにしか思っていませんでした。
でも、少しずつ彼の名前が院内で囁かれるようになってきて――
ある日、気になって仕方がなくなって。私は仲の良い看護師さんに尋ねました。
「あの人って、どんな人なんですか?」
「優しい人なんじゃない? 昔、この病院にいた女の子を、メイクしてあげたみたいだよ」
――その言葉を聞いた瞬間、ずっと奥底に沈んでいた記憶が、はっきりと蘇ってきたんです。
アヤカが最後に言っていた言葉――
「ある人から勇気をもらったから、私は闘うの!」
その言葉を最後に彼女は病院に現れなくなり、そして亡くなった。
その数日後――ケンさんが意識不明の状態で、病院へ運び込まれた。
でも、私にはわかってしまったんです。
アヤカがもらったのは“勇気”なんかじゃない。
あれは、ただの“同情”だった。
ケンさんが余計なことをしたせいで、アヤカはいじめを悪化させ、そして死を選んだ。
それを苦にしたケンさんは、自ら命を絶とうとし――けれど死にきれず、病院へ運ばれてきた。
そして今、罪悪感と罪滅ぼしのためなのか、再びこの病院へリハビリメイクという形で現れた。
私の中で、点と点が一気に線で結ばれた瞬間でした。
そして、胸の奥から込み上げてきたのは、どうしようもないほどの――憎しみでした。
私にとって、初めてできた“親友”を、死へと追いやったのは――
他でもない、ケンさんだったから。
性懲りもなく、またこの病院にリハビリメイクをしに現れたことさえ、私には許せなかった。
その日から、ケンさんの姿を病院内で見かけるたびに、私は怒鳴りつけていた。
「人殺し! どうしてあんただけ生きてるの?」
彼は無表情のまま近づいてきて、ただひと言――
「俺も、そう思う」
そう呟いて、静かに立ち去っていった。
この悲しさを、いったい誰にぶつければいいのか。
この苦しさを、どうすればいいのか。
自分でもわからなかった。
――ただ、責める誰かがほしかった。
やるせない感情をぶつける相手が、どうしても必要だった。
きっと、それだけだったのかもしれない。
だけど、そんな思いも――あの光景を見て、少しずつ変わっていった。
ずっと病室に閉じこもり、誰とも心を通わせず、無表情でいたユウカちゃん。
その彼女が、ケンさんと出会ってからは、外に出るようになり、“笑顔”で話すようになった。
嬉しそうに、楽しそうに。まるで、光の中にいるみたいに。
それを見たとき、思ったんです。
もしかしたら――あの時、ケンさんがアヤカにしたことは、間違っていなかったんじゃないかって。
私は、ケンさんにすべてを話しました。
そして――心から、謝りました。
今はもう、彼のことを憎んではいません。
ただ……どうしても、忘れられない言葉があるんです。
以前、ケンさんが自らの首の傷を見せながら、私に言ったひと言――
「俺は、疎まれながら生きてきた。誰かを傷つけて、憎まれながら、それでも死にきれず、こうして今も生きてる。この傷跡は、その代償みたいなものだ。一体……俺は何のために生きてるんだろうな」
その姿が、胸に焼き付いて離れない。
どうかもう、あんなふうに、自分を追い詰めないでほしい。
自分自身を責め続けないでほしい。
きっとケンさんは、今も罪悪感に苛まれながら、“生きていていい理由”を探している。
でも、私は知っているんです。
ケンさんには――ちゃんと、生きる意味がある。
生きる理由が、ちゃんとある。
だって、ケンさんには、人を“笑顔”に変える不思議な力があるから。
* * *
彼女の話を聞いて、初めて思った。
――知らないままのほうが、幸せなこともあるのだと。
首に残された、あの傷跡。
一度ついてしまった傷は、どれだけ時を重ねても、決して消えない。
それが、現実なのだと知ったのは、このときが初めてだった。
その傷は、ただ皮膚を裂いたものではなかった。
まるでシミのように、じわじわと心の奥にまで浸透していて。
もう、二度と癒えることはないのだと――そう思わされた。
今もなお、その傷は自分への憎しみの証として、あなたを苦しめている。
深く、痛々しく、そして生々しいほどに――。
あなたのことを知れば知るほど、私は確かに近づいていると思っていた。
でも、それは錯覚だったのかもしれない。
追いかけても、追いかけても、あなたはすぐ手の届かない場所へと遠のいていく。
まるで、私の想いだけが宙を彷徨っているようで。
そして、首の傷跡に刻まれた意味を知った今――
あなたは、いつか私の前からも静かに姿を消してしまうのではないか。
ふと、そんな予感がして、胸がきゅうっと締めつけられた。
5分ほど経った頃、病院の入口からユウカが姿を現し、笑顔で手を振りながら駆け寄ってくる。
「お姉ちゃん! 久しぶり!」
「久しぶり! 目の調子はどう?」
返事を聞くまでもなく、その表情を見ればわかる。
「ばっちり!」
「なら、よかった!」
互いの近況を報告し合いながら、穏やかな時間が流れる。しばらくして、チカは気になっていたことを切り出した。
「ねえ、ケン君の首の傷……。何か知ってる?」
「首の傷? ……ああ、言われてみれば、そんなのあったかも」
ユウカは少し考え込み、ふいに思い出したように手を叩いた。
「もしかしたら、シノブちゃんが何か知ってるかも! この病院に来て、もう五年くらいになるから!」
「……どこかで聞いた名前」
「ほら! あそこの車椅子に乗ってる女の人。あの人がシノブちゃん!」
ユウカが病院の入口を指差した。
「あっ、あの子……!」
チカの記憶がよみがえる。以前、ミサキとケンを尾行して病院にたどり着いたとき、話したあの女の子だ。
――でも、あのときは車椅子になんて乗っていなかった。
しかも、今の方がずっと痩せている。
「シノブちゃん、ケン兄がこの病院にリハビリメイクしに来る数年前に、一度だけ見たことあるって言ってた。意識不明の状態で運ばれてきたって」
「……何があったんだろう?」
「わからない。でもね、少し前までシノブちゃん、ケン兄のことをすごく嫌ってた」
「どうしてだろう――」
チカは首をかしげながら、小さく呟いた。
「そろそろ行かなきゃ。首の傷のこと、シノブちゃんに聞いてみるといいよ!」
「ありがとう! 気をつけて帰ってね!」
ユウカを見送ったあと、チカはしばらくその場に立ち尽くしていた。けれど、胸の奥で何かが背中を押す。
――今しかない。
そう思い、意を決して彼女――シノブのもとへと歩き出した。
驚かせないように、ゆっくりと近づき、小さく声をかける。
「私のこと、憶えていますか?」
シノブは一瞬、きょとんとした表情を浮かべたが、すぐにその表情に柔らかさが戻る。
「ケンさんの……知り合いの方でしたよね?」
「はい。このあいだは、本当にごめんなさい」
「――いえ」
静かな時間が流れる。
「……あの、実はひとつ聞きたいことがあって。ケン君とは、どういう形で知り合ったんですか?」
チカの問いに、シノブは目を伏せ、少しだけ間を置いた。
「話せば……長くなりますけど。私には昔この病院で出会った親友がいました」
「“いました”って……今はもう、いないんですか?」
シノブは小さく頷き、わずかに震えた声で言った。
「いじめを苦に……自ら命を絶ってしまったんです」
――ドクン。
心臓が強く打った。
「それって……もしかして、アヤカちゃんのことですか?」
チカがそっと問いかけると、シノブは驚いたように目を見開いた。
「……ええ。知っているんですか?」
チカはゆっくりと頷いた。
その頷きに導かれるように、シノブは静かに語り始めた――。
* * *
この病院に通っていたアヤカとは、診察のあとによくお喋りをしていました。
同い年だったこともあって、何でも話せる間柄で……私にとって、唯一親友と呼べる存在でした。
けれど、ある日を境に――突然、彼女は病院へ来なくなってしまったんです。
看護師さんに尋ねても、「わからない」と言われるばかりで……。
数日後、病院の廊下でアヤカのご両親を見かけました。
その時、アヤカのお母さんは取り乱した様子で、泣きながら何度も叫んでいたんです。
――“あいつがアヤカを殺した”って。
その言葉が、私の胸に深く突き刺さりました。
どうしてもアヤカに何があったのか知りたくて、私は再び看護師さんに詰め寄りました。
すると、渋々口を開いてくれて……こう話してくれたんです。
「アヤカがメイクをして学校へ行ったことでいじめが酷くなり、それを苦にして自殺した」と。
そして、アヤカのお母さんが泣き叫んでいた“あいつ”――
それがケンさんのことだったなんて、その時の私は、知る由もありませんでした。
それから4年が経って。
ある日突然、ケンさんがリハビリメイクの担当として、この病院へやって来たんです。
最初は、何の感情も抱かなかった。ただの外部スタッフのひとり、くらいにしか思っていませんでした。
でも、少しずつ彼の名前が院内で囁かれるようになってきて――
ある日、気になって仕方がなくなって。私は仲の良い看護師さんに尋ねました。
「あの人って、どんな人なんですか?」
「優しい人なんじゃない? 昔、この病院にいた女の子を、メイクしてあげたみたいだよ」
――その言葉を聞いた瞬間、ずっと奥底に沈んでいた記憶が、はっきりと蘇ってきたんです。
アヤカが最後に言っていた言葉――
「ある人から勇気をもらったから、私は闘うの!」
その言葉を最後に彼女は病院に現れなくなり、そして亡くなった。
その数日後――ケンさんが意識不明の状態で、病院へ運び込まれた。
でも、私にはわかってしまったんです。
アヤカがもらったのは“勇気”なんかじゃない。
あれは、ただの“同情”だった。
ケンさんが余計なことをしたせいで、アヤカはいじめを悪化させ、そして死を選んだ。
それを苦にしたケンさんは、自ら命を絶とうとし――けれど死にきれず、病院へ運ばれてきた。
そして今、罪悪感と罪滅ぼしのためなのか、再びこの病院へリハビリメイクという形で現れた。
私の中で、点と点が一気に線で結ばれた瞬間でした。
そして、胸の奥から込み上げてきたのは、どうしようもないほどの――憎しみでした。
私にとって、初めてできた“親友”を、死へと追いやったのは――
他でもない、ケンさんだったから。
性懲りもなく、またこの病院にリハビリメイクをしに現れたことさえ、私には許せなかった。
その日から、ケンさんの姿を病院内で見かけるたびに、私は怒鳴りつけていた。
「人殺し! どうしてあんただけ生きてるの?」
彼は無表情のまま近づいてきて、ただひと言――
「俺も、そう思う」
そう呟いて、静かに立ち去っていった。
この悲しさを、いったい誰にぶつければいいのか。
この苦しさを、どうすればいいのか。
自分でもわからなかった。
――ただ、責める誰かがほしかった。
やるせない感情をぶつける相手が、どうしても必要だった。
きっと、それだけだったのかもしれない。
だけど、そんな思いも――あの光景を見て、少しずつ変わっていった。
ずっと病室に閉じこもり、誰とも心を通わせず、無表情でいたユウカちゃん。
その彼女が、ケンさんと出会ってからは、外に出るようになり、“笑顔”で話すようになった。
嬉しそうに、楽しそうに。まるで、光の中にいるみたいに。
それを見たとき、思ったんです。
もしかしたら――あの時、ケンさんがアヤカにしたことは、間違っていなかったんじゃないかって。
私は、ケンさんにすべてを話しました。
そして――心から、謝りました。
今はもう、彼のことを憎んではいません。
ただ……どうしても、忘れられない言葉があるんです。
以前、ケンさんが自らの首の傷を見せながら、私に言ったひと言――
「俺は、疎まれながら生きてきた。誰かを傷つけて、憎まれながら、それでも死にきれず、こうして今も生きてる。この傷跡は、その代償みたいなものだ。一体……俺は何のために生きてるんだろうな」
その姿が、胸に焼き付いて離れない。
どうかもう、あんなふうに、自分を追い詰めないでほしい。
自分自身を責め続けないでほしい。
きっとケンさんは、今も罪悪感に苛まれながら、“生きていていい理由”を探している。
でも、私は知っているんです。
ケンさんには――ちゃんと、生きる意味がある。
生きる理由が、ちゃんとある。
だって、ケンさんには、人を“笑顔”に変える不思議な力があるから。
* * *
彼女の話を聞いて、初めて思った。
――知らないままのほうが、幸せなこともあるのだと。
首に残された、あの傷跡。
一度ついてしまった傷は、どれだけ時を重ねても、決して消えない。
それが、現実なのだと知ったのは、このときが初めてだった。
その傷は、ただ皮膚を裂いたものではなかった。
まるでシミのように、じわじわと心の奥にまで浸透していて。
もう、二度と癒えることはないのだと――そう思わされた。
今もなお、その傷は自分への憎しみの証として、あなたを苦しめている。
深く、痛々しく、そして生々しいほどに――。
あなたのことを知れば知るほど、私は確かに近づいていると思っていた。
でも、それは錯覚だったのかもしれない。
追いかけても、追いかけても、あなたはすぐ手の届かない場所へと遠のいていく。
まるで、私の想いだけが宙を彷徨っているようで。
そして、首の傷跡に刻まれた意味を知った今――
あなたは、いつか私の前からも静かに姿を消してしまうのではないか。
ふと、そんな予感がして、胸がきゅうっと締めつけられた。