もしも願いが二つ叶うなら…
「写真、撮ろう!」
チカはケータイを取り出し、左腕を高く掲げた。
「撮るよ!」
パシャッ――。
画面に映し出されたのは、希望に満ちた二人の笑顔。
その瞬間をそっと胸に刻むように、チカは願いを込めながら保存ボタンを押した。
――いつかまた、この写真を一緒に見る時も、今日と同じ笑顔でいられますように。
「そろそろ行こうか」
その声と同時に差し出された手に、チカも嬉しそうに手を重ねる。
二人が歩き出そうとしたその瞬間、カラン――という小さな音が足元で響いた。
「あっ……ネックレス……」
チカの声が弱々しく揺れた。
落ちたネックレスを拾おうとチカがしゃがむと、繋いでいた二人の手が自然と離れていく。
その時、チカの胸の奥に不意に走った、妙な胸騒ぎ――。
これは、ただの“偶然”なんかじゃない。
ネックレスが切れたのは、何かが壊れはじめる“前触れ”なんじゃないか……。
そんな不吉な予感が、チカの背筋をひやりと這った。
「形あるものは、いつか壊れる。だからこそ、美しいんだよ。すぐ直るから、大丈夫」
そう言ってケンは、再びチカの手を包み込んだ。
その手は、少しだけ冷たかった。
すると、ケンのポケットの中でケータイが震えた。
取り出したケンは、表示された着信に一瞬視線を止め、迷うように応答ボタンを押す。
「……もしもし」
その声はかすかに揺れ、顔から血の気が引いていくのが、チカにもはっきりと見て取れた。
短い沈黙のあと、ケンは無言で通話を切る。
「行かなきゃ……」
さっきまでの穏やかな表情は、もうどこにもなかった。
「どこに……?」
「ばあちゃんのところ……」
呟くような小さな声。
それ以上の説明などなくても、チカには十分すぎるほど伝わってしまった。
けれど、心のどこかで“違っていてほしい”という願いが先に立ち、口がきけなかった。
しばらくの沈黙ののち、チカは黙り込んだままのケンの腕をつかみ、揺らすようにして問いかける。
「……何かあったの?」
「容体が急変して……意識不明だって」
その一言一言が、チカの全身を凍りつかせた。
ケンの手を強く握り、チカは無我夢中でエレベーターへと駆け込んだ。
尋常ではないほど、心も手も震えていた。
けれど、それ以上に――あなたの心はきっと、もっと怯えている。
だって、ついさっきまであんなに温かかったあなたの手が、今はこんなにも冷たいから――。
東京タワーをあとにし、二人はすぐにタクシーへと乗り込んだ。
車内でチカは、強く祈っていた。
どうか、ただの間違いであってほしい。
どうか、何も起きていませんように――。
冷たくなったケンの手を、チカは自分の両手で包み込み、温めるように握り締めた。
ただ、その手に少しでも安心を伝えたくて。
やがて、タクシーは病院の前に到着した。
ケンはまだ放心状態のまま、怯えたような面持ちでタクシーを降りた。
チカに肩を支えられるようにして、足を運ぶ。
夜の病院は、まるで時間が止まったかのように静まり返っていた。
灯りもどこか頼りなく、誰一人いないのではと錯覚するほど、薄暗く、ひっそりとしている。
病室の前にたどり着き、ケンは一度だけ小さく深く息を吸い込んだ。
ノックをする間もなく、震える手でドアを開ける。
「……ばあちゃん!」
突然、抑えきれない感情があふれたかのように、ケンは叫び声をあげ、ベッドに駆け寄った。
そして、その手を――おばあちゃんの手を、力強く握りしめた。
――“ばあちゃん”。
その呼びかけが本当に届いているのかは、わからなかった。
握った手のぬくもりが、ほんの少しでも伝わったのかも、わからない。
だがその直後――
心電計から、悲しくも無慈悲な長い電子音が、病室全体に響き渡った。
その音が放たれると同時に、病室の空気は灰色に変わった。
沈黙が広がり、時が止まったような感覚に包まれる。
「……21時56分、ご臨終です」
担当医の低い声が静かにそう告げた瞬間、ケンの身体が崩れ落ちた。
「ウソだ……ウソだって言ってくれよ……目を開けてくれよ……なあ、ばあちゃん……お願いだから……」
ベッドに縋るようにして、何度も何度も声をかけ続ける。
それでも、もう返ってくる声はない。
まるで、ただ穏やかに眠っているだけのようだった。
つい先日会いに来たときと、ほとんど変わらない表情。
いや、それ以上に安らかで、優しい寝顔だった。
現実は、あまりにも静かで、冷たくて、残酷だった。
「ばあちゃん……ばあちゃん……」
ケンは何度も名を呼んだ。
けれど、どれだけ呼んでも――あの優しい声は返ってこなかった。
ケンは、ベッド脇の冷たい床に崩れ落ちた。
それでも、おばあちゃんの手だけは、離そうとしなかった。
その手には、確かにぬくもりが残っていた。
それはまだ、幼かった頃に抱きしめられていた時と同じぬくもり――。
気づけば、病室にはもうケンとチカ、そしてベッドで静かに眠るおばあちゃんの三人だけしかいなかった。
ふと窓の外に目をやると、静かに降り始めていた雨は、今や本降りに変わっていた。
あれから、どれほどの時間が過ぎたのか。
もはや感覚は曖昧で、“夢”でも“現実”でもない、どこか異次元にいるような心地だった。
そっとケンに視線を戻すと、彼はわずかに落ち着きを取り戻しているようにも見えた。
だが、まだ何かを語れる状態ではないことは、一目でわかった。
彼はただ、黙ったまま、おばあちゃんの手をしっかりと握りしめていた。
チカもまた、何も言葉をかけられなかった。
かける言葉が、どうしても見つからなかった。
あまりにも悲しすぎるその光景に、自然と涙があふれる。
それを拭おうとした、まさにその瞬間――。
聞こえてきたのは、かすかな声だった。
「……これで俺は、本当に、ひとりぼっちになったんだな……」
ケンは静かに、けれど確かな大粒の涙を零した。
思えば、いつだって争いばかりだった――
言葉をぶつけ、想いをすれ違わせ、大切な時間を無為にしてしまった。
俺は、自分のことばかり考えていた。
それなのに、ばあちゃんはいつだって、俺のことばかり考えてくれていた。
俺のせいで、反吐が出るような中傷を浴びて、言われる筋合いもない罵声を受けて、それでも一度たりとも嫌な顔を見せることなく、俺をここまで育ててくれた。
迷惑ばかりかけて、感謝の一言もろくに伝えられなかった俺を――
決して見捨てることはなかった。
どんな時も、味方でいてくれた。
ばあちゃん――
本当にありがとう。
そして、ごめんな。
もっと、恩返ししたかった。
たくさん、伝えたいことがあった。
なのにどうして……どうして、俺を残して、こんなに早くいなくなるんだよ。
――目を開けてくれよ。
――俺を、ひとりにしないでくれよ……。
まだ、物事の分別もつかないような幼い頃。
俺はばあちゃんと、あるひとつの約束をした。
「涙の分だけ、強くなれ」
あの約束、守れてきたのだろうか。
なぜ、人は涙を流すのか。
悔しいから? 悲しいから?
その理由や意味を考えたことはあっても、本当に「惟る」ことはなかった。
そんな理由もわからぬままに、俺は涙を重ね、少しずつ、大人になっていった。
でも――
今、ようやくわかった気がする。
今まで俺が流してきたのは、「自分のための涙」だった。
けれど今、こうして流れているのは――
「大切な人のための涙」。
それは、こんなにも切なくて、温かくて、そして冷たいものだった。
ばあちゃん――
“2006年3月7日(火) 21時56分”
ばあちゃんは、64年という長いようで短い生涯を、静かに終えた。
それは、ケンの瞳からあふれる涙に呼応するように、
夜の空から強く降り出した冷たい雨がすべてを包み込んだ――
春の訪れを前にした、あまりにも悲しすぎる出来事だった。
今から10年前。
まだ俺が中学生だった頃――
人には、生きている間に“三度”、輝く瞬間が訪れる。
そんなことを、ばあちゃんが話してくれた。
一つは、この世に生を授かった瞬間。
もう一つは、死に直面した瞬間。
この答えを聞いたとき、俺は素直に頷くことができなかった。
けれど、ばあちゃんは言った。
「いつかわかるときが来る」と。
そして最後の一つ。
それだけは、いくら尋ねても教えてはくれなかった。
あれから10年が経ち、ばあちゃんは今こうして、安らかな眠りについている。
けれど、あの問いの答えは、まだ見つかっていない――
葬儀は小規模ながらも、親しい者たちだけで静かに執り行われた。
最初で最後になってしまったけれど、俺は、たくさんの皺が刻まれたばあちゃんの顔に、そっとメイクを施した。
不思議と、ばあちゃんは少し笑っているように見えた。
その深く刻まれた皺のひとつひとつは、ばあちゃんが歩んできた歳月と、積み重ねてきた苦労の証だったのかもしれない。
穏やかな表情のまま眠るその顔を見つめながら、冷たいけれど、どこか温もりを残すその手を、俺はしっかりと握った。
そこに、24年間分の感謝を込めた。
そして――
火葬場で、最後の別れを告げた。
「ありがとう、ばあちゃん」
ばあちゃんは、蒼く高い空の向こう、遥か遠くの場所へと旅立っていった。
“天国”――
それがどんなに曖昧で、不確かであっても、残された俺たちが“今”を生きていくためには、必要な“居場所”なのかもしれない。
「きっとどこかで、見守ってくれている」
そう信じなければ、すべてが崩れてしまう。
心を、立たせておけなくなってしまう――
亡くなる前日、ばあちゃんと電話で少しだけ会話をした。
あの時、もしかしたらばあちゃんは、すでに自分の最期を予期していたのかもしれない。
電話を切る間際、ばあちゃんがふいに尋ねてきた。
「覚えてるかい? 昔に話した“三つの輝く瞬間”の話」
その言葉に、俺はもう一度、最後の一つを尋ね返した。
すると、ばあちゃんは静かに言った。
「自分で見つけなさい。そうでなきゃ、意味がないのよ」
――それが、ばあちゃんと交わした最後の会話になった。
今の俺は、果たしてどれだけ輝けているのだろう?
葬儀が終わり、夜空を見上げる。
東京では滅多に見ることのできない、満天の星が広がっていた。
その空に、一筋の流れ星が走る。
その瞬間、不思議と思い出した。
まだ俺が幼かった頃。
ジュンと交わした、あの会話のことを――。
「流れ星って、幸せなイメージがあるだろ? 願いが叶うとか。でも、俺は嫌いだ。輝くのを諦めて、流れ落ちたそんな星に、どうして人は願いを託す? なぜ、願いが叶うと思う?」
“願い”――
今でも、ただ願っただけで何かが叶うとは思っていない。
けれど、あの流れ星を見た瞬間、俺は……願っていた。
“またいつか、ばあちゃんと会えますように”
ばあちゃん。
あの時、最後に呼んだ俺の声……ちゃんと届いていたよね?
最後に握ったあの手……ちゃんと伝わっていたよね?
思い出すのは、ばあちゃんの穏やかで優しい笑顔。
24年間、何もかも捧げて、俺を育ててくれた。
優しく、そっと、ずっと見守っていてくれた。
かけがえのない幸せを与えてくれて、誰よりも強く、深く、愛してくれた。
本当に――ありがとう。
俺のせいで、きっと安心して眠れた夜なんてなかったんじゃないかな。
でも、もう大丈夫だから。
チカもジュンもいるから。
もう、心配しなくていい。
だから――俺の心の中で、どうかゆっくり休んでください。
おやすみなさい、ばあちゃん。
大好きだよ。またね――
そう心で最後の会話を交わした俺は、お揃いの金のネックレスを、強く、静かに握り締めていた。
チカとふたり、実家へ戻る。
そこは耳が痛くなるほど静まり返っていて、誰もいないという現実を、改めて思い知らされる場所だった。
俺はそっと畳の上に腰を下ろし、ずっとこらえていた“何か”から、ようやく解き放たれたように、静かに涙を流した。
人は、涙なしでは生きていけない生き物だから――
どうか私の前では、無理に強がらなくていい。
弱さを隠さず、泣いてほしい。
時には、何かに耐えて笑うより、何もかも忘れて、ただ泣く時間も必要だから。
あなたが流したその涙は、いつかきっと、誰かを守る“強さ”に変わる――。
チカはケータイを取り出し、左腕を高く掲げた。
「撮るよ!」
パシャッ――。
画面に映し出されたのは、希望に満ちた二人の笑顔。
その瞬間をそっと胸に刻むように、チカは願いを込めながら保存ボタンを押した。
――いつかまた、この写真を一緒に見る時も、今日と同じ笑顔でいられますように。
「そろそろ行こうか」
その声と同時に差し出された手に、チカも嬉しそうに手を重ねる。
二人が歩き出そうとしたその瞬間、カラン――という小さな音が足元で響いた。
「あっ……ネックレス……」
チカの声が弱々しく揺れた。
落ちたネックレスを拾おうとチカがしゃがむと、繋いでいた二人の手が自然と離れていく。
その時、チカの胸の奥に不意に走った、妙な胸騒ぎ――。
これは、ただの“偶然”なんかじゃない。
ネックレスが切れたのは、何かが壊れはじめる“前触れ”なんじゃないか……。
そんな不吉な予感が、チカの背筋をひやりと這った。
「形あるものは、いつか壊れる。だからこそ、美しいんだよ。すぐ直るから、大丈夫」
そう言ってケンは、再びチカの手を包み込んだ。
その手は、少しだけ冷たかった。
すると、ケンのポケットの中でケータイが震えた。
取り出したケンは、表示された着信に一瞬視線を止め、迷うように応答ボタンを押す。
「……もしもし」
その声はかすかに揺れ、顔から血の気が引いていくのが、チカにもはっきりと見て取れた。
短い沈黙のあと、ケンは無言で通話を切る。
「行かなきゃ……」
さっきまでの穏やかな表情は、もうどこにもなかった。
「どこに……?」
「ばあちゃんのところ……」
呟くような小さな声。
それ以上の説明などなくても、チカには十分すぎるほど伝わってしまった。
けれど、心のどこかで“違っていてほしい”という願いが先に立ち、口がきけなかった。
しばらくの沈黙ののち、チカは黙り込んだままのケンの腕をつかみ、揺らすようにして問いかける。
「……何かあったの?」
「容体が急変して……意識不明だって」
その一言一言が、チカの全身を凍りつかせた。
ケンの手を強く握り、チカは無我夢中でエレベーターへと駆け込んだ。
尋常ではないほど、心も手も震えていた。
けれど、それ以上に――あなたの心はきっと、もっと怯えている。
だって、ついさっきまであんなに温かかったあなたの手が、今はこんなにも冷たいから――。
東京タワーをあとにし、二人はすぐにタクシーへと乗り込んだ。
車内でチカは、強く祈っていた。
どうか、ただの間違いであってほしい。
どうか、何も起きていませんように――。
冷たくなったケンの手を、チカは自分の両手で包み込み、温めるように握り締めた。
ただ、その手に少しでも安心を伝えたくて。
やがて、タクシーは病院の前に到着した。
ケンはまだ放心状態のまま、怯えたような面持ちでタクシーを降りた。
チカに肩を支えられるようにして、足を運ぶ。
夜の病院は、まるで時間が止まったかのように静まり返っていた。
灯りもどこか頼りなく、誰一人いないのではと錯覚するほど、薄暗く、ひっそりとしている。
病室の前にたどり着き、ケンは一度だけ小さく深く息を吸い込んだ。
ノックをする間もなく、震える手でドアを開ける。
「……ばあちゃん!」
突然、抑えきれない感情があふれたかのように、ケンは叫び声をあげ、ベッドに駆け寄った。
そして、その手を――おばあちゃんの手を、力強く握りしめた。
――“ばあちゃん”。
その呼びかけが本当に届いているのかは、わからなかった。
握った手のぬくもりが、ほんの少しでも伝わったのかも、わからない。
だがその直後――
心電計から、悲しくも無慈悲な長い電子音が、病室全体に響き渡った。
その音が放たれると同時に、病室の空気は灰色に変わった。
沈黙が広がり、時が止まったような感覚に包まれる。
「……21時56分、ご臨終です」
担当医の低い声が静かにそう告げた瞬間、ケンの身体が崩れ落ちた。
「ウソだ……ウソだって言ってくれよ……目を開けてくれよ……なあ、ばあちゃん……お願いだから……」
ベッドに縋るようにして、何度も何度も声をかけ続ける。
それでも、もう返ってくる声はない。
まるで、ただ穏やかに眠っているだけのようだった。
つい先日会いに来たときと、ほとんど変わらない表情。
いや、それ以上に安らかで、優しい寝顔だった。
現実は、あまりにも静かで、冷たくて、残酷だった。
「ばあちゃん……ばあちゃん……」
ケンは何度も名を呼んだ。
けれど、どれだけ呼んでも――あの優しい声は返ってこなかった。
ケンは、ベッド脇の冷たい床に崩れ落ちた。
それでも、おばあちゃんの手だけは、離そうとしなかった。
その手には、確かにぬくもりが残っていた。
それはまだ、幼かった頃に抱きしめられていた時と同じぬくもり――。
気づけば、病室にはもうケンとチカ、そしてベッドで静かに眠るおばあちゃんの三人だけしかいなかった。
ふと窓の外に目をやると、静かに降り始めていた雨は、今や本降りに変わっていた。
あれから、どれほどの時間が過ぎたのか。
もはや感覚は曖昧で、“夢”でも“現実”でもない、どこか異次元にいるような心地だった。
そっとケンに視線を戻すと、彼はわずかに落ち着きを取り戻しているようにも見えた。
だが、まだ何かを語れる状態ではないことは、一目でわかった。
彼はただ、黙ったまま、おばあちゃんの手をしっかりと握りしめていた。
チカもまた、何も言葉をかけられなかった。
かける言葉が、どうしても見つからなかった。
あまりにも悲しすぎるその光景に、自然と涙があふれる。
それを拭おうとした、まさにその瞬間――。
聞こえてきたのは、かすかな声だった。
「……これで俺は、本当に、ひとりぼっちになったんだな……」
ケンは静かに、けれど確かな大粒の涙を零した。
思えば、いつだって争いばかりだった――
言葉をぶつけ、想いをすれ違わせ、大切な時間を無為にしてしまった。
俺は、自分のことばかり考えていた。
それなのに、ばあちゃんはいつだって、俺のことばかり考えてくれていた。
俺のせいで、反吐が出るような中傷を浴びて、言われる筋合いもない罵声を受けて、それでも一度たりとも嫌な顔を見せることなく、俺をここまで育ててくれた。
迷惑ばかりかけて、感謝の一言もろくに伝えられなかった俺を――
決して見捨てることはなかった。
どんな時も、味方でいてくれた。
ばあちゃん――
本当にありがとう。
そして、ごめんな。
もっと、恩返ししたかった。
たくさん、伝えたいことがあった。
なのにどうして……どうして、俺を残して、こんなに早くいなくなるんだよ。
――目を開けてくれよ。
――俺を、ひとりにしないでくれよ……。
まだ、物事の分別もつかないような幼い頃。
俺はばあちゃんと、あるひとつの約束をした。
「涙の分だけ、強くなれ」
あの約束、守れてきたのだろうか。
なぜ、人は涙を流すのか。
悔しいから? 悲しいから?
その理由や意味を考えたことはあっても、本当に「惟る」ことはなかった。
そんな理由もわからぬままに、俺は涙を重ね、少しずつ、大人になっていった。
でも――
今、ようやくわかった気がする。
今まで俺が流してきたのは、「自分のための涙」だった。
けれど今、こうして流れているのは――
「大切な人のための涙」。
それは、こんなにも切なくて、温かくて、そして冷たいものだった。
ばあちゃん――
“2006年3月7日(火) 21時56分”
ばあちゃんは、64年という長いようで短い生涯を、静かに終えた。
それは、ケンの瞳からあふれる涙に呼応するように、
夜の空から強く降り出した冷たい雨がすべてを包み込んだ――
春の訪れを前にした、あまりにも悲しすぎる出来事だった。
今から10年前。
まだ俺が中学生だった頃――
人には、生きている間に“三度”、輝く瞬間が訪れる。
そんなことを、ばあちゃんが話してくれた。
一つは、この世に生を授かった瞬間。
もう一つは、死に直面した瞬間。
この答えを聞いたとき、俺は素直に頷くことができなかった。
けれど、ばあちゃんは言った。
「いつかわかるときが来る」と。
そして最後の一つ。
それだけは、いくら尋ねても教えてはくれなかった。
あれから10年が経ち、ばあちゃんは今こうして、安らかな眠りについている。
けれど、あの問いの答えは、まだ見つかっていない――
葬儀は小規模ながらも、親しい者たちだけで静かに執り行われた。
最初で最後になってしまったけれど、俺は、たくさんの皺が刻まれたばあちゃんの顔に、そっとメイクを施した。
不思議と、ばあちゃんは少し笑っているように見えた。
その深く刻まれた皺のひとつひとつは、ばあちゃんが歩んできた歳月と、積み重ねてきた苦労の証だったのかもしれない。
穏やかな表情のまま眠るその顔を見つめながら、冷たいけれど、どこか温もりを残すその手を、俺はしっかりと握った。
そこに、24年間分の感謝を込めた。
そして――
火葬場で、最後の別れを告げた。
「ありがとう、ばあちゃん」
ばあちゃんは、蒼く高い空の向こう、遥か遠くの場所へと旅立っていった。
“天国”――
それがどんなに曖昧で、不確かであっても、残された俺たちが“今”を生きていくためには、必要な“居場所”なのかもしれない。
「きっとどこかで、見守ってくれている」
そう信じなければ、すべてが崩れてしまう。
心を、立たせておけなくなってしまう――
亡くなる前日、ばあちゃんと電話で少しだけ会話をした。
あの時、もしかしたらばあちゃんは、すでに自分の最期を予期していたのかもしれない。
電話を切る間際、ばあちゃんがふいに尋ねてきた。
「覚えてるかい? 昔に話した“三つの輝く瞬間”の話」
その言葉に、俺はもう一度、最後の一つを尋ね返した。
すると、ばあちゃんは静かに言った。
「自分で見つけなさい。そうでなきゃ、意味がないのよ」
――それが、ばあちゃんと交わした最後の会話になった。
今の俺は、果たしてどれだけ輝けているのだろう?
葬儀が終わり、夜空を見上げる。
東京では滅多に見ることのできない、満天の星が広がっていた。
その空に、一筋の流れ星が走る。
その瞬間、不思議と思い出した。
まだ俺が幼かった頃。
ジュンと交わした、あの会話のことを――。
「流れ星って、幸せなイメージがあるだろ? 願いが叶うとか。でも、俺は嫌いだ。輝くのを諦めて、流れ落ちたそんな星に、どうして人は願いを託す? なぜ、願いが叶うと思う?」
“願い”――
今でも、ただ願っただけで何かが叶うとは思っていない。
けれど、あの流れ星を見た瞬間、俺は……願っていた。
“またいつか、ばあちゃんと会えますように”
ばあちゃん。
あの時、最後に呼んだ俺の声……ちゃんと届いていたよね?
最後に握ったあの手……ちゃんと伝わっていたよね?
思い出すのは、ばあちゃんの穏やかで優しい笑顔。
24年間、何もかも捧げて、俺を育ててくれた。
優しく、そっと、ずっと見守っていてくれた。
かけがえのない幸せを与えてくれて、誰よりも強く、深く、愛してくれた。
本当に――ありがとう。
俺のせいで、きっと安心して眠れた夜なんてなかったんじゃないかな。
でも、もう大丈夫だから。
チカもジュンもいるから。
もう、心配しなくていい。
だから――俺の心の中で、どうかゆっくり休んでください。
おやすみなさい、ばあちゃん。
大好きだよ。またね――
そう心で最後の会話を交わした俺は、お揃いの金のネックレスを、強く、静かに握り締めていた。
チカとふたり、実家へ戻る。
そこは耳が痛くなるほど静まり返っていて、誰もいないという現実を、改めて思い知らされる場所だった。
俺はそっと畳の上に腰を下ろし、ずっとこらえていた“何か”から、ようやく解き放たれたように、静かに涙を流した。
人は、涙なしでは生きていけない生き物だから――
どうか私の前では、無理に強がらなくていい。
弱さを隠さず、泣いてほしい。
時には、何かに耐えて笑うより、何もかも忘れて、ただ泣く時間も必要だから。
あなたが流したその涙は、いつかきっと、誰かを守る“強さ”に変わる――。