もしも願いが二つ叶うなら…
【2006年3月3日(金)】
 
 昨日の夜、ミサキには「話があるから一緒に出勤しよう」とメールを送っておいた。
 “3月2日”
 この日が、自分たちだけの記念日になったことを伝えるために。

「おめでとう!」

 ミサキの弾けるような声とともに、白い吐息が朝の空気にふわりと浮かんだ。

「ありがとう」

 まるで自分のことのように喜び、いつも支えてくれるミサキに幸せな報告ができる――そのことが、何よりも嬉しかった。
 その日一日、満ち足りた笑顔を浮かべたまま営業を終え、夜の練習前にジュンにも報告をすることにした。

「ここまで、色々あったもんな。……ありがとう。ケンのこと、頼んだよ」

 人は生きる中で、常に“どの道を歩むか”を選び続けている。
 舗装されたアスファルトの道は、歩きやすい。けれど、そこに足跡は残らない。
 砂浜の道は、柔らかくて、すぐに足を取られる。でも、そこには確かに、自分が歩いた“証”が残る。
 誰だって、できれば平坦で歩きやすい道を選びたくなる。
 だけど、それは時に――ただの“逃げ道”かもしれない。
 不器用で、遠回りで、泣きたくなるような道だったとしても。
 必死に踏みしめて進んだ先には、ちゃんと“自分だけの足跡”が刻まれている。
 そうして刻まれた足跡は、きっと誰かが見てくれている。
 そして、その足跡が誰かの背中を、そっと押すことだってある。
 ――きっと。
 
 ケンと次に会うのは、4日後の火曜日。
 その日は、東京タワーへ遊びに行く約束をしている。
 東京生まれなのに、彼は東京タワーに一度も行ったことがないらしい。
 私は中学生のとき、修学旅行で一度だけ訪れたことがある。
 けれど、あのときは昼間だったから、夜景なんて見られなかったし、そもそも夜景そのものに興味なんてなかった気がする。
 あの頃の私は、まだ子どもだった。
 今は違う。
 夜景の美しさも知っているし、それを誰と見るかが一番大事だということも、少しだけわかってきた気がする。
 本当のことを言えば、たとえ行き先がどこであっても、彼と一緒にいられるだけで、私はきっと幸せを感じてしまう。
 そんな風に想像しているだけで、ふわりと心があたたかくなって、いつもより仕事も練習も楽しく感じてしまう。
 単純だな、と思う。けれど、それくらい今の私は幸せなのかもしれない。
 これほどまでに、次の休みが待ち遠しいと感じたのは、本当に久しぶりだった。
 
 
【東京タワーデート前日】
 
「明日はやっと休みだ!」

 チカは嬉しさを隠しきれず、星空に向かって両手を突き上げた。
 その表情はまるで、空に浮かぶ星々までも掴んでしまいそうなほど無邪気だった。

「嬉しそうだね」

 ミサキのからかうような声とともに、その視線がチカの額へと移る。

「……チカ、おでこにニキビできてない?」
「えっ?」

 慌てておでこに触れてみると、指先に感じる小さな腫れ。
 ちくりとした感触とともに、現実が押し寄せてくる。

「うそ、なんで今日……!? 明日、デートなのに!」
「えっ、いいな! どこ行くの?」
「東京タワー! それより、このニキビ、コンシーラーで隠れるかな?」

 チカは急いでポーチからミラーを取り出し、額に視線を集中させる。
 不安そうな顔つきで眉を寄せ、ミラーの中の自分とにらめっこを始めた。

「ニキビがあるチカも、十分可愛いよ」

 ミサキは肩をすくめて笑いながら言ったが、チカにはそれを受け止める余裕がなかった。
 帰り道、チカは途中のコンビニに立ち寄り、ビタミンC入りのドリンクを手に取った。
 藁にもすがる思いで、それを一気に飲み干す。
 そして帰宅後――
 今度は、コーディネートとの静かな戦いが始まった。
 鏡の前で何度も服を合わせ、少しでも「いい感じ」に見える組み合わせを探し続ける。
 気がつけば、深夜をまわっていた。
 最後は、ニキビに薬を塗りすぎというほどたっぷり塗りつけて――
 明日には少しでも目立たなくなってくれることを祈りながら、ようやくベッドに潜り込んだ。
 
 
【東京タワーデート当日】
 
 お昼前に目を覚まし、ゆっくりと支度を始めた。
 昨日から居座り続けている厄介者――おでこの小さなニキビは、何とかコンシーラーで隠すことができた。
 けれど、その代償のように、いつもならすぐ決まるはずの髪型がどうしても決まらない。
 余裕をもって起きたはずが、最後の最後で手間取ってしまい、結局10分遅れで待ち合わせ場所に着いた。

「遅れてごめんなさい!」

 そう言って駆け寄るチカに、ケンは柔らかく微笑みながら答える。

「大丈夫だよ。さあ、行こう」

 その笑顔はどこか穏やかで、少し前の彼からは想像もつかないような表情だった。
 その些細な変化が、チカには胸が苦しくなるほどの幸せだった。
 二人は吉祥寺駅から電車に乗り、東京タワーへと向かった。
 到着した東京タワーは、改めて見上げると圧倒的な存在感を放っている。
 中へ入ると、そこは修学旅行中の学生や外国人観光客で賑わいを見せていた。
 まずは館内のカフェに立ち寄り、二人で軽く話をしながら一息つく。
 そして、次はフロアを回ってみることにした。
 あなたは、私の少し先を歩く。
 私は、ほんの少し後ろからあなたを追いかける。
 何気なく揺れるあなたの左手に視線を向けながら、心の中で“ある想像”を思い浮かべていた。
 それだけで、胸の奥がくすぐったくなるような高鳴りに包まれる。
 ドキドキと、心地よさ。
 そんな感情が同時に存在する、不思議な時間。
 ほんの少しのことで、こんなにも笑顔になれる。
 これは、あなたにしか作り出せない“本当の私”なんだ。
 ふと外に目を向けると、さっきまでの綺麗な夕焼けが夜の帳へと姿を変えはじめていた。

「チカ、そろそろ展望台に行ってみようか」

 その声に、すぐ気づいた。
 ――“君”から“チカ”へ。
 たった一言、呼び方が変わっただけ。
 けれど、それは胸の奥をくすぐるような嬉しさを連れてきた。
 幸せすぎて、頬が緩んでしまうのを隠すのに、必死だった。
 展望台に到着すると、夜景にぴったりな雰囲気の音楽が、静かに流れていた。
 薄暗くライティングされたフロアを、ゆっくりと歩いて周る。
 時折立ち止まっては、窓の向こうに広がる光の海を眺めた。
 ――こんなにも綺麗だったっけ?
 好きな人と見る夜景は、これまでに見たどんな景色よりも美しく思えた。
 展望台は観光客で賑わっているはずなのに、耳に届くはずの喧騒さえ、今は聞こえない。
 意識を集中させてしまうのは、歩くたびに、かすかに触れ合う私とあなたの手の感触だけだった。
 触れるたび、胸が波立つ。
 “手を繋ぎたい”――そう思っているのは、私だけ?
 周りの景色も、音も、視界の端にさえ入ってこない。
 ただ、あなたのぬくもりを求める気持ちだけが、頭の中を埋め尽くしていた。

「チカ、危ない」

 ふと、人とぶつかりかけた瞬間――あなたの手が伸びてくる。
 温かくて、やさしい手。
 冷たくなっていた私の手をそっと包み込み、二つの手が自然と重なった。
 心地よい温度が、指先から胸の奥までじんわりと広がってゆく。
 初めて知った。
 あなたの手が、こんなにも温かくて、こんなにも大きいことを。
 私の小さな手を、すっぽりと包み込んでしまうほどに。
 これから先も、ずっとこの手に触れていたい。
 この温かさが、私だけの特等席。

「ここよりさらに100メートル高い、特別展望台があるって書いてある。行ってみようか?」
「うん! 行ってみたい!」

 チカはつないだ手を小さく揺らしながら笑顔を返した。
 エレベーターを乗り継ぎ、特別展望台にたどり着くと、ケンは南側の窓の前で立ち止まり、ぽつりとつぶやいた。

「……すごい。神秘的な光景だ」
「え? 何が?」

 同じ景色を見ているはずなのに、チカにはケンが何に感動しているのか分からなかった。
 夜の街並みが広がるだけで、“神秘的”と呼べるものはどこにも見当たらない。
 なのに、彼の表情はまるで少年のように目を輝かせ、無邪気なほどにその景色を見つめていた。
 そんなケンの横顔を見ているだけで、チカの好奇心がくすぐられる。

「どこが神秘的なの?」
「ほら、あそこ見て」

 ケンが指差した先には、幾筋もの光が交差する道路があるだけ。

「何か……浮かび上がって見えない?」

 首をかしげながら視線を向けるチカに、ケンはゆっくりと語りはじめた――。

「あの、縦に通って途中で二股に分かれてる道が外苑東通り。漢字の“人”って字に見えない?」
「……あっ! ほんとだ、見える!」
「それと交差するように湾曲してるのが桜田通り。外苑東通りと重ねて見てみると……“大”の字に見えるの、わかる?」

 チカは目を輝かせながら、嬉しそうに何度も頷いた。

「その二本の道を走る無数の車の赤いテールランプと、オレンジの街灯の光、よく目を凝らして見てみて」

 その瞬間、チカの全身に衝撃が走った。鳥肌が立つのを感じる。
 偶然か、それとも奇跡か。
 道路を走る車の赤いテールランプとオレンジ色の街灯が交じり合い、夜の街にもうひとつの“東京タワー”が、まるで浮かび上がるように姿を現していた。
 これまで見たどんな夜景よりも、ずっと美しい光景だった。
 東京タワーから眺める、もうひとつの東京タワー――。
 それは、ケンの“想像力”というブラシで、東京というキャンバスに施された幻想的なメイクのように感じられた。
 こんなに素晴らしい光景が“偶然”に見えるわけがない。
 むしろ“運命”と呼ぶほうが自然だった。
 あの光景を、あなたと一緒に見ることができた。
 それがなによりも嬉しかった。
 ――“偶然”が“運命”へと変わる瞬間。
 それを目の当たりにしたのは、きっと初めてだった。
 人生におけるすべての“偶然”。
 それは神様が与えてくれた、ほんの小さなきっかけにすぎないのかもしれない。
 そのきっかけを“運命”に変えていくのは、いつだって自分自身なんだと思う。

「目に見えるものじゃなくて、“心の目”で見るものに意識を注ぐこと。目に見える景色は一時的だけど、心で見たものは、ずっと心に焼き付いて残る」

 ケンの声が、胸に優しく染み込んでいった。
 ――やっぱり、この人は特別だ。
 他の誰とも違う、独特の世界観を持っていて。
 その考え方も、感性も、限りなく広くて、深い。

「そっか。……それって、天国に行っても心に残り続けるのかな?」

 チカはふと、少し寂しそうに微笑んで首をかしげた。

「……もしそうなら、“永遠”って、本当にあるのかもしれないね」

 “永遠”
 その言葉を、俺はこれまで信じたことなんて一度もなかった。
 “永遠の愛”なんて、どこか物語の中の出来事のようで、リアルに感じたことがなかった。
 “天国”も同じ。
 否定するつもりはないけれど、信じてもいなかった。
 きっと、こちら側の人間が“救い”を求めるために作り出した、都合のいい空想の世界に過ぎない。
 けれどもし仮に“天国”という場所があるのだとしたら――
 俺はそこからこの景色を、君と一緒に、もう一度見下ろすことができるのだろうか。
 もし、それが叶うなら。
 “永遠”という言葉を、俺は少しだけ信じてもいい気がした――。
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