もしも願いが二つ叶うなら…
- 最終章 ( 〝二つ〟が持つ意味 ) -

【 二つの記憶 】

【2007年3月1日(木)】
 
 [ニューヨーク]
 
 ハナが身を小さく震わせるのを見て、メイソンは無言で立ち上がり、部屋の片隅に置かれたストーブのスイッチを入れた。
 静かな“カチリ”という音が部屋に響き、じんわりと柔らかなぬくもりが広がっていく。

「3か月前のことよ。彼はニューヨークへ戻ってきたの」
「彼って……あの、写真の女の子をメイクした方ですか?」

 視線が自然とあの写真に引き寄せられる。
 まるで光を孕んだように柔らかく笑う少女――笑顔に宿る何かが、心を掴んで離さない。
 その姿は、記憶の底で何かと繋がりかけている気がした。
 メイソンは静かに頷き、まだ温かさの残るコーヒーを口に含む。
 湯気が細く揺れ、その温もりとともに、時間がほんの少しだけ緩む。

「戻ってきた、ということは……それまで、どこか別の国に行っていたんですか?」
「ええ、日本よ」

 その瞬間、稲妻が脳内を走ったような鋭い痛みがこめかみを貫いた。
 ハナは思わず頭を押さえ、背もたれに体を預ける。
 胸の奥が大きく脈打ち、呼吸が乱れる。息が、うまくできない。
 鼓動の音が耳の奥で反響する。
 ――何かが、思い出せそうな気がする。
 たしか私は……交差点で――
 車のライト、強い衝撃、そして――
 “闇”
 

* * *
 
 ――ここは……どこ?
 ぼんやりとした視界の先に、白く滲む天井が揺れていた。
 ……病院?

「よかった……目を覚ましてくれて……」

 涙を滲ませながら、ベッドの傍に立つ誰かがそう言った。
 けれど、その顔にまるで見覚えがない。
 この人は……誰?
 恐怖と混乱が一気に押し寄せる。
 胸の奥が凍りついていくような不安。

「あなたは……誰ですか?」

 震える声でそう呟いたチカに、ミサキは一瞬きょとんとした顔をしたのち、無理に笑ってみせた。

「えっ? ちょっと、またまた……!」

 茶化すような口調だったが、その声には明らかな動揺が滲んでいた。
 虚しく響いた声が、病室の静寂に吸い込まれた。

「ほんとに……私の名前、わからないの?」
「……はい。誰……ですか?」
「ミサキだよ。ミサキ。忘れちゃったの?」
「ミサキ、さん……?」
「じゃあ、自分の名前は? 思い出せる?」
「じぶんの、名前……?」
「全部……全部、忘れちゃったの? 私のことも、“愛する人”のことも……」

 ミサキは堪えきれず、チカの手を力いっぱい握った。
 その手はかすかに震えていた。

「……アイスルヒト……?」

 チカの瞳が大きく見開かれ、次の瞬間、両手で頭を抱える。
 鋭い痛みに眉をしかめ、呻くように身をよじった。
 それは、現実を拒絶する身体の反応だった。
 ミサキの中で、何かが音を立てて崩れていく。

「ああ……いや……いやっ……!」

 その姿を前に、抑えていた感情がついに溢れ、ミサキは大声をあげて泣き出した。

「君の名前は――チカだ」

 そう告げたのは、病室の隅にいたジュンだった。
 彼もまた、言葉の一つ一つを噛み締めるように話していた。
 苦しげに声を絞り出しながら、カバンから手帳を取り出すと、一文字ずつ丁寧に漢字を書いた。

「“千の花”と書いて、“チカ”。君の名前だ」
「……センノ、ハナ……?」

 チカはまるで幼子のように首をかしげ、ゆっくりと繰り返した。
 混乱した瞳は焦点を結ばず、恐怖と困惑だけが宿っている。
 わけもわからず戸惑い続ける彼女は、再び頭を抱え、ぶんぶんと左右に首を振り続けた。
 その姿に、ジュンはただ唇を噛みしめるしかなかった。
 そのとき、病室の扉が開き、息を切らしたタカユキが駆け込んできた。
 チカはおびえたようにベッドの奥へ身を引く。

「この人は……誰ですか……?」

 震える声でジュンに尋ねるチカに、ジュンは優しく微笑みながら答える。

「同じ職場の人だよ。名前はタカユキ。優しい人だよ」

 なるべく恐怖を与えないよう、言葉を選びながらゆっくりと説明する。
 それを聞いていたタカユキは、その場に立ち尽くしたまま、言葉を失った。
 そこにあったのは、ただ“失われた過去”の存在を、誰もが認めざるを得ない静かな絶望だった。
 誰もがその現実の重さに声を奪われたまま、しばしの沈黙が病室を支配した。
 
* * *
 
 
 しばらくして、チカの両親が福島から到着した。
 ジュンとタカユキは、力なく項垂れるミサキを支えながら病室を後にする。
 三人は無言のまま、ロビーの一角で足を止めた。
 重苦しい沈黙を破ったのは、タカユキの憤りを帯びた声だった。

「……あのケンって奴が、俺にはどうしても許せない。チカをあんなに傷つけておいて、まるで切り捨てるみたいに目の前から消えやがった……同じ男として、情けないって思うんですよ。最低な奴ですよ」

 ジュンはその言葉に応えず、深く視線を落とした。
 心のどこかで、否定も肯定もできない何かが、ずっと胸に引っかかっていた。
 そのとき――

「情けない男、だろうか。最低な男、だろうか?」

 その場の空気を裂くように、鋭くも静かな声が響いた。
 振り返ると、偶然ロビーを通りかかった院長が、立ち止まっていた。
 低く落ち着いた声だったが、確かに熱を孕んでいた。

「君は、彼の何を知っている?」

 強く向けられた視線に、タカユキは言葉を失い、俯いた。

「誰かのために、何かをしてやりたいと思う気持ちがある。愛する人の未来を守るために、自分を犠牲にしてまで身を引くことが、本当に“情けない”ことだろうか? “最低”と断じていいことなのか?」

 院長の声には静かな怒りと、深い哀しみが滲んでいた。
 その問いかけに、誰も何も言えなかった。
 言葉にできない何かが、喉の奥でつかえたまま沈黙が広がる。

「私は、そうは思わない。むしろ、彼を心から尊敬している。あれほど人を深く想い、愛せる人間を、私はほかに知らない」

 そう告げた院長は、目にかすかな陰を宿したまま、その場を後にした。
 ジュンは言葉もなく、その場に立ち尽くしていた。
 脳裏には、いつかのケンの笑顔と、消えていったあの日の後ろ姿が静かに浮かんでいた――。
 
 あれから、1週間が経った。
 チカは実家の福島へ戻り、療養を続けていた。
 ジュンは有給を使い、数日間の休みを取ってチカの実家を訪ねることにした。
 チカの母親とは、以前から面識がある。
 まだチカがアシスタントとして働き始めたばかりの頃、東京に遊びに来た母親の髪を、ジュンが何度かカットしたことがあった。
 チャイムを鳴らすと、慌ただしい足音とともにドアが開いた。
 一瞬、母親の表情に戸惑いが浮かぶ。
 だがすぐに記憶を辿り、柔らかな笑みを浮かべた。

「あら、あなたはチカの先輩の……」
「こんにちは。突然すみません。チカさんの容態が気になりまして……」
「それでわざわざ福島まで。まあ、こんなところで立ち話もなんですから、どうぞお入りになって」

 招かれるまま家の中へ通されると、ジュンはすぐに尋ねた。

「記憶は……少しでも戻りましたか?」
「……いえ。まったくと言っていいほど戻っていません。もう……自分の名前も“ハナ”だと、思い込んでしまっているの」
「僕が“千花”と書いて教えてしまったせいかもしれません……」
「部屋に閉じこもって、外へ出ようともしないんです。お医者さまからも、このまま記憶が戻らない可能性もあると言われていて……。もう、私たちにもどうしていいのか……」

 少しの希望にすがって訪ねたジュンだったが、その淡い期待はあっさりと砕かれた。
 しばらく外に出ていないというチカをジュンはそっと誘い出し、近くの小高い丘にある見晴らしのいい公園へ連れ出すことにした。
 まだ雪の残る遊歩道を歩き、ふたりは静かにベンチへ腰を下ろす。
 チカは無言のまま、左手の薬指に光るリングを見つめ続けていた。
 まるでそこに、自分の存在のすべてが刻まれているかのように。

「その指輪の意味が、わかるか?」

 ジュンの問いかけに、チカはゆっくりと視線を上げた。

「……結婚?」
「そうだな。けど、お前たちにとっては――それ以上の“絆”だったのかもしれない」

 言葉を選びながら、ジュンは自身の心の中でもがいていた。
 忘れているままでいさせた方が、チカは楽なのかもしれない。
 真実を話したところで、それが彼女の心を引き裂くだけだとしたら……。
 ケンが、すべてを抱えて姿を消したのも、そういう理由だった。
 チカの未来を想い、あえて“別れ”を選んだ――愛する人のために。
 ――だとしても。
 それでは、あまりにも悲しすぎるじゃないか。
 そうだろう、ケン……。
 ジュンはチカを見つめる。
 何も思い出せないまま、それでも必死に生きようとしている、儚くも強い姿を。

「なあ、チカ。世の中にはさ……知らない方が幸せなこともある。けどもし、自分の記憶の中から、“大切な宝物”が消えてしまっていたとしたら。たとえそれが、お前を傷つけるものだったとしても。……それでも、知りたいって思うか?」

 チカはしばし指輪を見つめたまま黙っていた。
 やがて、ゆっくりと唇を開く。

「それが……それが本当に、私の“大切な宝物”だったなら――知りたい」

 その答えに、ジュンは小さく息を吐いた。
 何かを吹っ切るように、短く、静かに。
 そして、迷いを断ち切るように静かに言った。

「チカ――ニューヨークへ行くんだ」
「……ニューヨーク?」
「そう。そこに、お前の“大切なモノ”がすべてある。お前自身の記憶も、お前との出逢いを、愛を、“運命”だと信じているあいつも。全部、お前の手で探し出すんだ。あいつのために。――いや、何よりお前自身のために」

 ジュンは、チカの両親にすべての事情を話した。
 このままでは記憶が戻らないこと。
 だが、ニューヨークに“鍵”があること。
 そして――それは、彼女が自分自身で向き合わなければならないこと。
 今の状態で、ひとりで異国へ行かせることは危険だとわかっていた。
 当然、両親の不安は大きかった。
 それでも、どうしても譲れなかった。
 これはチカの「思い出したい」という強い意思だ。
 そして、記憶を取り戻すために残された、たったひとつの方法でもある。
 誰かに守られながらでは意味がない。
 彼女が自分の足で向き合わなければ――。
 説得は数時間にも及んだ。
 何度も言葉を尽くし、ジュンは両親の不安と真っ向から向き合った。
 そしてようやく、ジュンが全面的にサポートすることを条件に、承諾を得たのだった。
 チカは、再び“自分”を探すための旅に出る。
 愛を、記憶を、そして“運命”という名の真実を探すために――。
 
 
 [ニューヨーク]
 
「どうしたの? 大丈夫?」

 メイソンは、こめかみを押さえたまま俯いているハナを、そっと気遣うように見つめた。

「……ええ、大丈夫です」

 ハナが小さく答えると、ふたりの間に静かな沈黙が降りた。
 その沈黙の中で、ハナは呼吸を整えながら、ゆっくりと気持ちを立て直していった。

「あなたは、大切なモノを探しにニューヨークへ来たと言っていたわね」
「はい」
「でも……それを見つけたことで、何かを失ってしまうかもしれない。それでも本当に構わないの?」

 メイソンの声には、どこか深い憂いが滲んでいた。

「それが本当に、私にとって“大切なモノ”なら――たとえ何かを失っても、構いません」

 答えながら、ハナはふと目を伏せた。
 独りでいることに怯え、誰かに寄りかかることでしか生きられなかった過去の自分。
 けれど――もし、最後の“大切なモノ”までも失ってしまったなら。
 そのとき、私は本当の意味で独りになれるのかもしれない。
 その“独り”は、もう怖くないのかもしれない――。
 ふいにメイソンが、何かを決心したように静かに語り始めた。

「あの子はね、人の幸せを自分のことのように心から喜び、人の不幸には本気で涙を流せるような子だった」
「……彼は、自分が最も愛する人に別れを告げて、このニューヨークへやって来たの。辛くて悲しい――あまりにも重たい“真実”から、大切な人を守るために。そしてそのために、自分の心を――すべての感情を、無理やりにでも凍らせて……」

 その声は震えていた。
 けれど、そこに宿る熱だけは、確かにハナの胸に届いていた。
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