空しか、見えない
「悪いけど、本当にもう行かなきゃ」

 純一は、押し戻された紙幣をそのままカウンターに残し、まゆみに頭を下げた。本当にタイムリミットだ。約束の時間に遅れたら、由乃はまた泣いたり騒いだりするだろう。そんなことをされたら、由乃を嫌いになってしまいそうだった。婚約者への思いを変色させてしまいそうな自分が怖かった。
 自分だけが、身を引けばいい。ハッチの思い出から、こぼれてしまえばいいのだ。思い出は、心の中に閉じ込めておくだけでいいはずなのだ。そうしたら、由乃はまた元の、透んだ存在に戻ってくれるはずだった。

「待って。本当にこれで最後にするので、待ってください」

 まゆみの声を、純一は背中に受けた。立ち止まりはしたが、振り返るわけにはいかなかった。だが、まゆみの方が、カウンターの内側から出てきた。

「差し出がましいことをしているのは、よくわかっています。でも、どうしても義朝がそう言っている気がして仕方がないの」

「義朝が? 何を言うの」

 純一は、振り返ってしまった。
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