空しか、見えない
「私ね、会っちゃったのよ、その奥さんに」

「なんで?」

 千夏は、チーズを口に含みながら訊く。

「だって、急に訪ねてきちゃったんだもん。アパルトマンまで」

「やだ、どんなおばはんだった?」

 千夏は、相変わらず口が悪い。

「違う。おばはんではなかった。きれいな女性だった。いきなり私の頬をぶってきて、玄関先でべらべらまくし立てて、そのうち泣き出して……、でもね、1時間後には、一緒にお茶してた。嫌いになれなかった、私」

 マリカの言葉に、不意に佐千子の胸が熱くなった。一日の緊張も溢れてきたのか、涙ぐんでしまった。
 自分も、ルーを嫌いにはなれなかったのだ。一方的に送られてきた長文のメールを訳して読み続けながらも、のぞむが一緒に暮らしている相手は、こんなに率直で力強く、そして温かい話し方をする人なのだと思っている自分がいた。
 ふと、マリカと目が合うと、彼女の大きな目にも一気に涙が溢れてきた。

「とにかく、お帰り、マリカ」

 環の声が、優しく響いた。
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