空しか、見えない
「覚えてたんだ?」

「覚えてるさ。だから俺、今回だって」

「何?」

「いや、とにかく、みんな当日までは何があるかわかんないよ。でさ、そういやその本って、確かごじべえさんのところにもあったんじゃなかったかな。古式泳法の名著だって言われてたのじゃない?」

「どうぞ」

 まるで間合いも見ていたかのように、まゆみがウィスキーを運んできた。

「環、明後日にはギプスが外れるそうです」

「知ってましたよ。環さん、みんなに報告するの、楽しみにしていたんだもの。それで、さっき、連絡があって、デートしていたおふたりも、よければ合流したいって。大丈夫かな?」

 まゆみが遠慮がちに訊いてくる。

「もちろん」

 環と佐千子が、声を合わせる。
 まゆみには、何でもお見通しなのだろう。でも、いつもここで静かに、余計なことは何ひとつ言わずに、みんなを見守ってくれている。だからこそ、まゆみの前で言いたかった。

「環、私、あなたがギプスを外しに行くの、ついていってあげるよ。それで、先生の話も一緒に聞いて、本当に泳いでいいって言われたら一緒に泳ごう」

「いいよ、病院くらい、ひとりで行けるよ」

「わかってるよ、でも、バディなんだよ、私たち。一緒に行こう」

 店に流れるジャズのナンバーが、アップテンポになり、まだ夜は始まったばかりだと伝えてきた。
 思えば佐千子にとっては、酔う楽しみも泳ぎ始めてから覚えたのだった。
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