フィレンツェの恋人~L'amore vero~
その人は平賀彰子の正面に立ち止まり、


「先日はどうも」


と微笑む。


「……あっ……い、いえっ」


ガッターン、と大きな音がフロアーいっぱいに長く反響した。


彼女は腰を抜かしたように椅子に座り込んで、魂を抜かれたように放心してしまった。


その様子を見て、彼はククと笑った。


「僕、何か驚くような事をしたのかな」


平賀彰子は反応ひとつ示さず、完全に鈍麻状態だ。


「まあ、いいでしょう。先日はありがとう。それと、明けましておめでとう」


明らかにオーダーメイドで、スタイリッシュの細身の、光沢鮮やかなブラックスーツ。


ワインレッドとホワイトシルバーの斜めストライプ柄のネクタイに、Gucciのゴールドのタイピン。


彼は無反応の平賀彰子に一礼して、コツ、と私の正面に立った。


「牧瀬、東子さん」


貴公子のような外見と気品あふれる笑顔。


そして、何よりもこの香り。


ル・マル。


鷹司……。


「煌さん……」


「覚えていて下さったのですね。光栄だな」


そう言って、煌さんはなぜか私の首元をじっと見つめた。


「今日は何もつけていないんだね」


ハッとして、私は首を隠すように触った。


「あ……ええ。仕事中は」


「と、いう事は、勤務中はノーマークという事か」


「え?」


「いいえ、お気になさらずに」


煌さんはやっぱり爽やかに微笑んで、まだ放心している平賀彰子に言った。


「君」


この女性を、と私を指さしながら。
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