みだりな逢瀬-お仕事の刹那-


簡単に取ることが出来たのは、社長が返す気でいたからだろう。


勘ぐりながらも、大事なメガネのテンプルを持ちながらポケットへしまい込んだ。


その部分を手で押さえながら視線を上げると、「もう取らないよ」と言って苦笑する彼。



「……母のなんです」

「朱祢の?」とすぐに加えられ、コクンとゆっくり頷いたのち口を開いた。



「母が亡くなってから、……寂しくなると、視力が良いのにたまに掛けていたんです。視界にレンズひとつを挟むだけでひとりじゃないって安心して、このメガネをかけると母の面影を感じたりして……。
でもある日、私が不注意で落としてレンズに大きな傷が入ってしまって、それ以上壊れないようにと保管していたんです。
そうしたら透子ちゃんがこっそり修理を出してくれて、……私用にカスタムしてくれたのがこのメガネなんです。ある意味、ふたりの形見でもありますね……。
だから私にとって、……宝物です」


確かにこのメガネは高価なものらしいけれど、私にとってそんなのはどうでも良い。これはふたりの思い出が詰まった、価値をつけられない品だから。


「悪かった」

彼女たちの残像が脳裏を掠め、頬を伝っていた涙をそっと拭ってくれた彼。ただひと言の謝罪に、小さく頭を振って笑った。


「……いえ、謝らないで下さい。
普通でしたら、メガネにそんな経緯があるって思いませんよ」

そもそも謝っても謝りきれないのは私の方だ。


物は良い思い出のある品だけを選んで残せる。しかし、感情は分別しようとしてもそれが叶わないのだから。


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