失恋レクイエム ~この思いにさよならを~
踏ん切り

人の話し声と食器のぶつかる音、微かに空調の騒音の間を縫うようにピアノの鍵盤を叩いていく。
少し重い鍵盤が放つ音の粒は軽やかにけれども深みをもって空間をすり抜けていく。

今日は歌いたくない。

そう酒井さんに言えば好きにして良いよ、と笑ってくれた。

だから今日はピアノだけでジャズとクラシックを混ぜて演奏することにした。

たまに、歌いたくない時があってそう言うときは仕事を断るわけにもいかないからこうして歌わずにピアノだけでステージに立つ。
極まれに、わたしのステージに合わせた様に来店するお客さんがいるけれど、それは本当にたまにだった。

だから酒井さんも歌わなくても良いと言ってくれるんだと思う。

この気分の起伏、何とかしないと…。

それでも、幼いころから続けているピアノも悪くない。
わたしは、こういうお店にはピアノだけの方が合うんじゃないかって思ってる。
お客さんだって、そのほうが耳につかないだろうし…酒井さんが言う肴にだってなりやすいはず。

でも、酒井さんがわたしを雇ったということは歌で良いってこと。

って言う風に良いように解釈をしていた。

まぁ、現に他の曜日にはピアノだけの人が出ているからこれ以上ピアノはいらないってだけの話だとも思う。

「おつかれ、マユちゃん」

いつもの様に仕事上がりの一杯を出してくれる酒井さん。この一杯がたまらなく美味しい。

「どうでした?ピアノの腕も落ちてないでしょ?これでもちゃんと鍛えてるんですから」
「うん、良かったよ。アレンジの腕、また上げたんじゃない?」
「ホント?酒井さんにそう言ってもらえると嬉しいなぁ。今日はなんか知らないけど、すごく気持ちよく弾けたー」

毎日最低2時間はピアノの練習を欠かさないでやってきた甲斐があるってもんだ。
楽器って不思議で、1日演奏しないと3日分失われるって言われているくらい毎日の鍛錬が必要。
逆に声楽の場合はやりすぎが問題になってくる。
過度な練習は喉に良くない。だから1日中歌っているわけにもいかないので自然とピアノに時間がとれる、とバランスが取れるのが何よりの救い。

これでもし、器楽の方を選んでいたらピアノなんて練習する時間をここまで取ることは出来なかったと思う。
今も歌とピアノ両方先生について大学とは別にレッスンも受けに行っている。
それに付け加えて最近、作曲の方も真面目に勉強し始めた。
これは作曲科の友達に無理を言って教わっているだけだけど、それでもやっぱり勉強しないのとするのとじゃ雲泥の差だった。前よりずいぶんアレンジの幅が広がった。

「マユちゃん、本当にこの道でやっていく気はないの?」
「ないない。身の程わきまえてるつもりです。それに、いつまでも親の脛かじってられないもん」
「マユー、お疲れ。今日は歌なしだったんだな。ちょっと残念」

下げ物をした透が厨房から出て来てカウンターで立ちどまり、わたしの顔をのぞきこんで言った。その顔はすねた子供みたいだった。

「俺、マユの声好きなのにー」
「ホント?じゃぁ今度透のために歌ってあげるからお酒奢って」
「うわ、年下にたかるのかよ」

ヒデー奴、と逃げるようにして持ち場に戻る透の後姿を見やってからカウンターに向き直る。
すると酒井さんと目があった。

「…なんかあった?」
「えっ」

彼は「ため息」と一言。

「わたし今ため息つきました?」
「うん、思いっきりね」

はぁーっと神妙な顔つきで酒井さんが大きなため息をついた。
どうやらわたしの真似らしいそれに苦笑いしか返せない。

「彼氏とでも喧嘩した?」
「彼氏?」
「ほら、たまに飲みにくるあのイケメン」
「あぁ」

すぐに羽賀さんの事だとわかった。
彼はたまにわたしの出演に合わせて飲みに来てくれて、終わった後にも少しだけ一緒に飲んで一緒に帰っていたし、わたしがここで飲む相手といえば羽賀さんしかいない。

「違います、違います!あの人はただの知り合いですって」
「ふーん、そうなんだ。てっきり彼氏だとばかり思ってたよ」

目を丸くさせて酒井さんはそういった。
酒井さんがそう思ってたって事は透や他の人にもそういう風に思われてるんだろうか…そう思うとなんだか急に恥ずかしくなって頬が火照った。

今の今まで気づかなかったけれど、月に数回ここで待ち合わせをしているようなもので、それを周りはデートだと思うのは当然かもしれない。

けど…。

――それは違う…。

わたしと羽賀さんはそんな関係じゃない。
そんなんじゃない。

羽賀さんは…わたしの事を女として見てない。

あの夜、彼はわたしを抱かなかった。抱いてくれなかった。

羽賀さんはそんな事するような人じゃないってわかってたし、抱いて欲しいなんて本当に思ってなんかなかった。
抱いてもらう事ですべてが解決すると考えるほど馬鹿じゃない。

それでも…全部じゃなくても良いから、羽賀さんと体を重ねる事で先生への想いにすこしでも踏ん切りをつけられたら、と変化を望んだのは事実。

なのに、わたしは―――

「――ジンライムください」

声と共に隣のスツールに腰を下ろしたのは、少し息の弾んだ羽賀さんだった。

< 83 / 100 >

この作品をシェア

pagetop