失恋レクイエム ~この思いにさよならを~
「あー、また間に合わなかった…」

わたしの演奏に間に合わせようと走ってきてくれたんだ…。
心底残念そうにつぶやく彼に胸が締め付けられる。
さっきまでのもやもやした感情がすっとどこかに消えていって、気持ちが軽くなった。

「こんばんは、お疲れ様です。わたし、今日歌いませんでしたよ」
「え?出なかったの?」
「いえ、ピアノだけで」
「あぁ、そういうことか。どっちにしても聴きたかったなぁ」

その嬉しい言葉に浮かれそうになるのを必死に抑える。この人のこの優しさは羽毛布団みたいにふわふわとあたたかく包み込んで、あっという間にわたしを夢心地へと導く。気を抜くとそれにどっぷりと浸ってしまいそうになって、そして思い知らされる。

この優しさはわたしだけに向けられたものではないという事に。

「仕事、忙しいんですか?」
「うーん、これでも最近はだいぶ落ち着いてきたんだけどなー。そういえば、この前ショールーム勤務の人に定時で上がれない日が続くって言ったら「私なんて毎日終電帰りよ」って怒られちゃって」
「それって、あのショートボブの人…?」
「そうそう、前に俺の家の近くで会った人。たまにここにも来てるから時森さんもわかるか。谷津さんっていうんだけど、彼女と比べたら忙しいなんて言ってられないなーってつくづく思ったよ」

谷津さん…か。

まるっとさらけ出されたきれいなおでこが印象的な美人。
大人っぽくて、けど華奢でかわいらしさもあってわたしなんて足元にも及ばないくらい素敵な女の人。

「今度機会があったら紹介するよ。彼女すっごく面白いから、ホント」

谷津さんのことを話す羽賀さんはずっと笑顔だった。誰に対しても優しい羽賀さん。
つい、そのことを忘れそうになって馬鹿を見る。

きっと、ずっと片思いしていたっていう職場の同僚にも同じように、普段以上に優しく接していたんだろう。
そして振られてから後も変わらぬ優しさでいるんだろう。

先生が羽賀さんみたいに優しい人だったら良かったな…。

そしたら、こんな風に傷つくことだってなかったのに。

「どうかした?」

その声にハッとして顔をあげると、心配そうな顔の羽賀さんと目が合う。

「なんか、落ち込んでる?」

その声音に、息が詰まった。

「ううん、ちょっと考え事してただけです」

この胸の中に広がる不安定な思いを消し去るようにわたしは務めて笑顔を作った。今はこの人と関わっていたい。

どんな形でもいいから。


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