ワイルドで行こう

 英児は頭に血が上って、とにかく彼女を落ち着かせて帰そうと必死だからまだ気がついていないかもしれない。
 でも、千絵里さんは……。神戸からこの街に帰ってきてからずっと、英児をこの住むはずだった店舗兼自宅を何度か確かめにやってきていたのだと。
 戻ってきても、英児はここでずっと一人で暮らしていた。暫く眺めていれば、直ぐに判ったはず。少し前の英児なら女の影もなく、彼らしい暮らしぶりで店を閉めれば夜な夜な車で走りに行く。彼らしい暮らしぶりを知ったことだろう。しかも、まだ独身でフリーだった。それを知った千絵里さんにどんな想いが巡っただろうか。
 はだける胸元のブラウスを握りしめ、琴子は一人うずくまる。年月が経ったからこそ、落ち着きを取り戻した彼女に残っていたのは、やはり『思慕』。英児をまだ愛している。『やり直したい』。でも酷い別れ方をしたから、直ぐに顔を合わせられない。迷うのに半年以上かかっても無理はない。気持ちが整うまで、『ごめんなさい』と言えるようになるその日まで。それが満タンになってから英児に会いに行こう、許してもらおう。そう思っていた矢先に、彼に何年ぶりか。『新しい恋人』が傍にいた……。
 琴子だって胸がキリキリする。そういう女の悲しみ。まったく違うけれど、琴子もデザイナーの彼と別れてから、『もうだめなの?』と考え直して欲しくて、彼のマンションに押しかけようかと思ったことが何度かある。『父が病気になって亡くなって、母もあんなことになって取り乱したけど、もう大丈夫。もう一度、前みたいに……』。無駄かもしれないと思っていても、一度は愛し合った気持ちを胸に、女はその愛をくれた男にもう一度問いかける。無駄と解っていても――。
 今夜の千絵里さんはそれだった。鍵を使ってしまったのも、『売り言葉に買い言葉』で関係を駄目にした人なら、『出来心』でやってしまえる人だったのかもしれない。軽い気持ち……。見つかりそうになったらそっと出て行けばいい……。でも入ったらそこらかしこに琴子の痕跡。既に染みつき始めている女の匂いと形跡。『私の家だったのに』。また取り返そうと思っていたならば、それは腹立たしいことだったかもしれない。後戻りが出来ず、『まさかあのベッドも使っているのか』。その気持ちが一直線に寝室に向かっていく。そうしたら、彼と新しい女が愛し合う囁き。
 そこまで考えたどり着き、琴子は改めて震える。胸のあたりが苦しくなり、息が少しばかり荒くなる。
 ――何故、ドアを開けたのか。

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