ワイルドで行こう
「潮が引くと、階段がもっと続いていて小さな渚になるんだ」
「こんなところまで、あがってくるのね」
 そして彼が入り江の向こう、遠い対岸を指さした。
「あの一番光っているところが、空港の隣にある工業地帯な」
「綺麗」
「嫌なことあっても、俺は走って夜の沢山の光を見て忘れる。俺はね……」
 琴子さんはどう? とは言わないけど、隣で肩を寄せ合っている彼がそう言って見つめてくれている気がした。だから琴子も微笑み返す。
「私ね。誰もが知っている場所しか行ったことがないの。こんな夜中に誰も知らない場所に来たこともない。どこか行くなら前もって決めて、突然出かけるとかないの。こんなの初めて」
 彼が笑う。
「琴子さんらしいね」
 そして潮風にそのまま身を任せ、琴子も対岸の街灯りを遠く見つめる。
「私も忘れる。だから、もう、ピースでもホープでもどっちでもいいのよ。もう関係ないの。だから……貴方も忘れて……」
「なにを忘れたらいいの、俺……」
「辛かった私がいたこと、忘れて。いまここにいる私だけ知って……」
 今度は琴子から彼を見つめた。いつも優しく滲んでいる目尻のしわが消える。彼が思い詰めた目で琴子を見つめ返す。
 そして彼の腕が、琴子をさらに傍へと抱き寄せてくれる。そよぐ夜の潮風の中、琴子もそのまま彼の腕の中へと身を任せた。
 彼が上から琴子の顔を見下ろしている。
「このまえ、俺……ちょっと一方的で荒っぽかったかと……後になって気になって……」
 彼の長い指先が、琴子の肩へと触れた。勢いに任せて肌を求めたこと触れたこと痕を残したことを気にしているようだった。
「ううん。あれから……ずっと、ここが熱くて。私、ここを見て貴方を思い出していた」
「ほんとに」
「まだ、少しだけ残っているのよ。消えちゃうって……寂しく思っていたところ」
「まだ、残ってんの」
 見てみたいとばかりに、彼の手がブラウスのボタンへ。首元の最初のボタンを開けてしまう。そして二つ目のボタンも……。
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