大海の一滴

「えっと……ホットコーヒーを」

 一瞬、その辺りを尋ねてみたくなったが、やはり今は相応しくないだろうと、好奇心は内にしまい込んだ。
 秋野月子の前には花柄のティーカップが湯気を立てている。

 彼女はチャップリンについて、別段気に留める気配は見せていない。
前の寅さんの時も、茶色くヨレっとした服に、下駄を突っ掛けてオーダーに来たのに、達之以外、誰も気にしていなかった。

 もしかして、ここはそういうアミューズメント的な要素のある喫茶店なのだろうか?
 それにしては外観が平凡すぎるよな。達之は首を捻った。



 それから、秋野月子へ挨拶を返していないことに気付き、ぎこちない笑顔を作る。
「いや、本当にお久しぶりです」




 チャップリン似のウエイターがくれた、温かく丸まった手拭きを広げると、アロマのような甘ったるさがふわっと広がった。

 チャップリンは、「少々お待ち下さい」ときびすを返し、実に姿勢よく戻って行った。



 カウンターから焙煎豆の甘く香ばしい匂いが漂う。
同時にボコボコと噴気孔のような音が立ち、その不規則な音を縁取るように、歌の無い緩やかなジャズがスピーカーから細く流れている。


(中はまるで変わらないな)

 装飾も家具の配置もジャズの音量まで、寅さんがチャップリンになったことを除けば何もかもが数年前と同じだった。


 まるで空間全て、まるっと冷凍保存されているみたいだ。


「ホッとするんです。いつ来ても、ここは変わらないから」
 達之の心を読んだように、秋野月子は微笑んだ。

「チャ……、いえ本当にそうですね」
 彼女が気にしていないのだ。この際、チャップリンも寅さんも置いておこう。



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