大海の一滴

 土曜は仕事を早く切り上げることにしている。何も無ければ五時には上がる。

 そう決めているのだが、月曜に使うミーティングの資料が手付かずのままだった。
 ドアの隣に設置されたコーヒーポットから煮詰まったブラックを注いですぐさま打ち込みを始めたが、イライラのせいで頭の回転も悪く結局九時近くまでかかってしまったのだ。


(急いで帰らないと)
 達之は六段階の変速機を一番重いギアに切り替えた。

 多少の疲れは伴うが、家には早く着く。娘はもう寝てしまっている頃か。
家の鍵はちゃんと閉めてあるよな。この辺りも物騒になってきている。
強盗事件もちらほら起きていると聞くし、小さな子供を狙った犯罪も多いらしい。

 そう言えば、小学校から来た保護者向けのプリントに『変質者がうろついているから、公園には近づかせないで下さい』と書いてあったな。

 良くない妄想ばかりがよぎり、そんな馬鹿な、と頭を振った。

(思っている以上に疲れているな。ビールくらい買って帰るか)

 途中のコンビニに寄ろうと決めた途端、妙にリラックスした気分になる。

 元来楽観的な性格の達之は、心配事があまり長くは続かない。
自転車のギアを一つ軽くすると、心まで一つ軽くなった気がした。
 こうなってくると生温い夜道の空気さえ清清しく思えてくる。

(もしかして、今日こそ美絵子も帰ってきているかもしれない)
 不安が治まると、代わりに期待が大きく膨らんだ。


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