大海の一滴

 まるで催眠術にでもかけられたように、視界がぼやける。


 この感覚……。

(前にも一度、味わったような気がする)

 それは多分、気のせいなのだろう。


「あのさ、麗子。結婚の事は本当に気にしなくていいから。けど……。同棲しない? ほら、オレは夜の仕事で休みも不規則だから、もっと麗子と一緒にいたいな~、みたいな」
 隣にいるはずの一哉の声が、酷く遠かった。それでも麗子は頷いた。

「そうね」
 これ以上、一哉を傷つけるわけにはいかないのだ。

「マジで! よっしゃ~」
 嬉しそうな一哉の声も、どこか現実味に欠けていた。


(祓わなければならない何か)


 図書館で調べた、頻繁な物忘れの原因。

 病名は……。

「そんじゃ、膳は急げってことで、次の一緒の休みに物件見に行こうよ」
「そうね」



(うつ病)



 責任感が強く、几帳面で仕事熱心な性格。
 否定的思考の人間がなりやすいと、妙に分厚い本に書いてあった。


 一番、認めたくない病気。


 そんなはずは無いと、その後何十冊も読んだ。なのに……。


「オレ、次に日曜が休みになるのはねぇ……」
 一哉の元気な声が、イライラする。

「……が休めそうだけど、麗子はさぁ……」
「ごめん一哉。ちょっとワイン飲みすぎたみたい。このまま、少し眠ってもいいかな?」

 おもわず、口調が強くなる。



 一哉の全てを排除したい。



 たまに起こる一哉への憎悪にも似たこの感情は、一体何なのだろう。
麗子は目を閉じた。



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