crocus

ゆっくりと目を開けば、心配そうに覗き込む若葉の顔があった。

口元を見れば、ぱくぱくと素早く動かしているが、声帯を震わせて一緒に出てくるはずの音が聞こえない。ただ形を作るだけの動く唇を見るのは少し恐怖を感じた。

声を出すことは出来るけれど、自分で発音した言葉が耳で感じることなく顔の中心から骨へと響いて伝わることは、どうにも気持ち悪さを覚える。

さらには口から出た言葉は自分が思うよりも変な音で伝わっているような気もするのだ。

以前からこうなる度に、そんな嫌悪感と羞恥心が邪魔をして言葉を出すことを躊躇わせていた。

今だってそうだ。

何も知らずに不安そうにしている若葉を安心させる言葉なら、頭の中でいくつも浮かんでいるのに、喉が震え方を忘れたように硬直している。

それでも何か言わなくちゃ……と、自分に鞭を打てば、やっと動いた唇は彼女の名前を形作っていた。

そのことに琢磨の方が腹の奥底から、緊張がじんわりと溶けていく感覚に見舞われた。

名前を紡げる誰かがそばにいてくれたこと。そのことが一人じゃないと思えて、どうしようもなく嬉しくて安心した。

いつもなら1人で部屋に、いや……もっと狭い、1人で創り上げた無意識の空間に閉じ籠っていた。

けれど今日はそんな大事な習慣を忘れてしまっていたから、誰かがそばにいること、それはすごく心強いこと、それはすごく温かい温度だということを初めて知ることが出来た。



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