crocus


見惚れている場合じゃないと、若葉は橋の欄干から身を乗り出して、砂時計が落ちたと思われる辺りを眺めた。けれど夜目が鍛えられていない若葉には、月に照らされる川の水面が見えるだけで、闇はただの闇だった。落下音は聞き取れず、着地地点が水中か川岸かも分からない。

「…逃げた母親が今さら現れて、善人面をした女には心の中に土足で踏み込まれる…。だから女は嫌いなんだよ」

何が正しいのか、自分が橘さんの気持ちを押してまで守りたかったのはなんだったのか、よく分からなくなってしまった。

ただ橘さんを傷つけてしまったことだけは確かだ。だからと言って過ちを悔いて涙を流す訳にはいかない。とても自分の感情を溢れさせている状況じゃない。

若葉は、橘さんの思い出が詰まった砂時計を捨てさせてしまうほど追い詰めて、取り返しのつかないことをしてしまったのだ。

「キミが僕の気持ちを無視して、あの人の思いを成就させたいっていうボランティアをしたいなら、出家でもなんでもしたらいい。誰にだって触れてほしくない部分があるんだよ?キミだってそうでしょ?」

橘さんの言う通りだ。ここに来てから誰一人として「家に帰らなくていいの?」と実家に触れずにいてくれた。それがどれだけ有難かったか。

女性嫌いの橘さんに我慢を強いさせて、居場所を与えてもらっていたことだってそうだ。

自惚れて、環境に慣れて、自分の処遇の有り難みを忘れていた。当たり前と思うことが一番怖いことなのに。

人に何かしてほしいことがあるなら、まずは自分が動かなくてはいけなかったんだ。


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