crocus


頭の中では恭平くんのボーカルで、ドラムの桐谷さん、ギターの、キーボードの、ベースのさんが奏でる音が忠実に再生されるのに、耳が拾う音は若葉ただ1人の声だけ。

オレンジの照明に包まれた店内の賑わいと相反して、この部屋は閑散としすぎていて暗く寒い。床の木目を見ていたら、異空間へと吸い込まれそうだ。

その時、4回正面の扉がノックされた。そして女性の柔らかい声が心配そうな色を含んで耳に届いた。

「若葉お嬢様? ご主人様がお戻りになりました。至急、ご主人様の部屋に来るようにとのことですが 、いかがいたしましょう?」

「ありがとうございます。早苗さん。今、行きます」

早苗さんは、両親が亡くなってからここに引き取られた若葉に優しく接してくれた女給さんの1人だ。

そっと扉を開けると、早苗さんは眉をしゅんと下げて、眼鏡の向こうで微笑んでくれている。相変わらず、ゆるくクルンとした茶色の柔らかそうな髪はショートカットを保っていた。

「そこまで一緒に行きましょうか?」

「いえ、大丈夫です。早苗さんは女給長になられたんですよね?忙しい時に帰ってきて、驚かせてごめんなさい」

6月の株主総会を控えているために、重役の方が屋敷を度々お見えになる。だから女給さん達は、おもてなしに抜かりないようにと慌ただしくなるのだ。

「何を言うんです。ここは若葉様のお家です。それにご健康そうでどんなに安心したことか 」

口元を両手で隠す早苗さんの瞳は少し潤んでいた。

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