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ある初夏の午後
 バタン。
 
 裏玄関の扉の閉まる音がした。午後2時45分、一人娘の美紗が帰ってきた。小学3年生、今日は木曜日でもう少し帰宅時間が早いはずなのに1時間ほど遅い。しかも通常は表から
 
 「ただいま〜〜!」
 と元気よく帰ってくるはずが、今日に限って裏玄関とは。
 麻由美は不思議に思い、美紗を迎えに行った。
 
 麻由美は、32歳、3歳年上の夫の良樹と喫茶店を営んでいる。脱サラで5年前に手頃な物件を購入し、自宅兼店舗で営業を始めた。やっと軌道に乗り始め、そろそろ1人パートでも雇おうかと考えていた所だった。

 「美紗、どうしたの?今日は早い日じゃなかったっけ?」
 娘の美紗は今にも崩れそうになりながら、重たい口を開いた。
 「早紀ちゃんたちにランドセル蹴られた。」
 麻由美は驚いてランドセルを見た。はっきりとしたものは消えていた。きっと美紗が帰る途中にハンカチか何かで拭いたのだろう、確かに上靴の縁の後がかすかに付いている。
 
 麻由美は頭を何かでガツンとやられた衝撃を受けた。早紀ちゃんとは同じ幼稚園だったし仲も良かったはず。しかも未だに同じスイミングスクールに通っていて、母親とも顔見知りだ。
 いろいろな情景が頭をかすめ始めた。しかし母親が狼狽えては娘にもその心情は移ってしまう。麻由美はどうにかして美紗の気分が良くなる方法を見いだそうと必死に考えていた。すると美紗は
 
 「ママ、早紀ちゃんたちには何も言わないで!早紀ちゃんのママにも言わないで!」
 
 いじめられている子は、いじめが発覚した時にその報復が一番怖いのだ。美紗ももちろん例外ではなかった。しかし麻由美は知ってしまった以上、このままにしておく訳にはいかなかった。昨今ではいじめを苦に自ら命を絶ってしまうことも少なくない。まだ9歳なのに自分で解決などできるはずがない。
 
 麻由美は一つだけ訊く事にした。
 「いつから?」
 美紗は震えながら
 「よく覚えてない。」
 と言い残し、住居のある2階へ駆け上がってしまった。
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