絡む指 強引な誘い 背には壁 Ⅰ 

現実に戻るための第一歩

こうやって、自由に道を歩くことが、どれほど幸せなことだろう。
 香月は何気ないショーウィンドゥの磨き上げられたガラスに自分を映しながら、静かにそう思った。
 頭があり、手は両方とも好きなように動かせ、足はちゃんと地に着いている。
 とても大切なことだ。普段、産まれてから、ずっと不自由なく育ったせいで今、ようやくそれを知ることができる。
 ここから、桜美院総合病院までは歩いて10分、それからバスに乗って30分はかかる。だけれども、もう今は自分の車を運転しようという気力はどこにもなかった。
 それに、今はそんなことはどうでもいいと思う。
 バックに丁寧に入れた一枚の封筒が今の自分の全てであった。
 白いシンプルな横使いの封筒。表には「榊先生様」。その中には、短いが、自分の全てが入っている。
 今、この衰弱した状態を回復させることができるのは、誰でもない、榊だけだと信じていた。
 病院に着くと、一般受付の事務員に「先日お世話になった者ですが、榊先生にこれを、今日中にお願いします」と丁寧に手渡した。
 特に急ぐ必要はなかったが、このまま、何かの書類とごっちゃになってどこへ行ったか分からなくなるよりはほんの一言添える方がずっとマシだと思った。
『 榊 様
 突然、お手紙を出してすみません。
 少し相談したいことがあるのですが、お時間よろしいでしょうか。
 携帯番号は、@@@@@です。
 お返事お待ちしております。
             香月 愛 』
 いつ携帯が鳴るとも知れない状況。何もすることがない環境。これで、3日も電話がかかってこなかったら、また衰弱してしまうと思った。
 だが、飛び跳ねるほど嬉しいことに、マンションに帰る途中の丁度エントランスで、知らない番号から電話はかかってきた。
『もしもし』
 その声を聞き間違えるはずはない。
「もしもし……」
 心臓が波打つのを静かに抑える。
『榊です。……愛?』
「はい……ごめんなさい、どうしても……」
 声が震える。
『今日は? 今から3時間オペしたら明日朝まであく』
「構いません」
 即答した。
『また終わったら、連絡する』
 榊の術衣など見たことがない。
 だけどその様子は、勝手に頭の中で構築され、まるで自分が手術されているかのような、そんな不思議な気分になった。
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