闇夜に笑まひの風花を
*****

朔。
月のない夜。
闇が最も深まるこの日、杏には辛い夜となる。

月の加護がない夜というのは、ペンダントの加護が薄れる。
杏の力だけでは最早耐えられない。

だからこそ、今日を選んだ。

与えられる加護がないなら、喚び出して加護を得るより他に方法はない。


召喚の儀式は、太陽が地上に名残の光を赤く残す頃、始まった。


いつものような見張りも、呪術師も一人も塔の近くにはいなかった。
誰もが、不穏な空気を勘で感じて近寄ろうとはしない。
北の塔の最上階には、床に陣を描いていく杏と、彼女をただ見つめる裕しかいない。

空気を震わせるのは、独自の音節とリズムで唄いあげられる呪。
床には、独自に調合された絵具で、奇怪な模様が描き出されていく。
杏のドレスは汚れ、額には汗が滲む。

裕は部屋の隅で、ただそれを眺めていた。
声を発することもしない。
傍に寄ることもない。
ただ腕を組んで、壁に身体を預けていた。

やがて、太陽が沈み、星が小さく瞬く。
闇はそれさえ飲み込むように深くて、生きるものは怯えるように気配を消す。

杏は唇を噛み締めた。
予想していたとはいえ、魔が容赦なく食い荒らすのを感じる。

闇が暴れて、苦しい。
とうとう、杏は胸元を掻きむしってうずくまった。
大方書き終えた陣の真ん中で、杏は荒い呼吸を繰り返す。

呪文はあと一節。

それなのに、口を開けば呻き声にしかならなかった。

何かにすがろうとして伸ばした指は、裕の足元でもがいている。
裕は目を眇めてしゃがみこみ、陣には入らないようにしながらそれに手を差し伸べた。
しかし、ぬくもりに触れる前に、彼女は腕を引っ込めた。

杏は血が滲むほど噛み締めた唇の間に親指を入れ込み、歯で指の皮を噛みきる。
ぽたりぽたりと血が陣の上を汚すと、陣は薄く発光し始めた。
そして、今度は自らの血で残りの文字を陣に書き加えていく。

「____我の声に、応え給、え
その姿を現……し、たまえ
我が、願いを聞き……とどけ……た___っ
______っつ!」

声にならない悲鳴を上げて、杏は陣の中に倒れ込んだ。
ドレスの胸元が汚れ、痣が血を流す。
アレキサンドライトのペンダントは血に汚れ、杏はあまりの痛みに呼吸さえままならない。

ああ、どうして。
いつも肝心なときにうまくできないのだろう。

おまじないの呪文さえ唱えられず、悔しさと酸素不足に涙が零れる。

「__っ!」

お願い、誰か……助けて。
誰も良い。
誰か。

脳裏にちらついたのは長い髪。
滲む視界が捉えたのは赤い宝石。

思い浮かぶ名前は一つだけ。

__始祖、

「……リルフィ……っ!」
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