奥さんに、片想い

 どこからともなく『きゃあ』という女性の声が聞こえ、僕の顔が勢いよく横に飛ばされた。頬に熱いコーヒーの粒もぼたぼた飛んできた。
「コールの段階で食い止めるのが、アンタの仕事でしょ。対応できないからって部長にすぐに報告するだなんて、この役立たず!!」
 それだけ吐き捨てると、彼も大きく一息。どこか後悔したような顔で拳をみつめ、唇を噛みしめながら背を向け去っていった。
 僕の白いワイシャツに、大きな茶色の染み。そして口元に指を当てると、少しだけ血が滲んでいるのに気が付いた。
「徹平君、大丈夫!?」
「主任、大丈夫ですか」
 僕と同じ時間に休憩となった顧客対応班の彼女達がちょうど目撃してしまったようだ。
 ベテランのパートおばちゃんと、社員の若い女の子二人が一緒に駆けてきた。
「あの青年社長の担当だよね、彼。ちょっとやりすぎだよこれは」
 おばちゃんはすぐさまハンカチを手に、僕の胸元を拭いてくれる。側にいた女の子二人も迅速に掃除用具を持ってきて、あたりに零れたコーヒーの跡を拭いている。
「沖田さんって、ひどい」
「美佳子さんの時だって……」
 沖田というのはその若い営業の彼のこと。だが彼と美佳子の名がうっかり揃ってしまい彼女達が顔を見合わせすぐさま口を閉ざしてしまう。
 おばちゃんも若い女の子にひと睨みしていたが、そこはあんまり触れたくない発言したくないスタンスを保ってきた僕の心情を気遣ってくれたのか、それ以上は何も言わなかった。
「あーあ。染みになっちゃうね。いつも綺麗にパリッとしているのに……」
 おばちゃんはそう言うと、暫くの間、絶対に落ちない染みをジッと見つめて俯いていた。
「徹平君はなんにも悪くないよ。そんなことコンサルの女の子達も分かっているし、課長も営業部長も所長だって。それにこう言ってはなんだけど。彼の顧客への対応を見ると、『ノリが軽い』気がしてしようがなかったんだよね。あちらの社長さんも若いし、お互いに若いから軽いノリで丁度良いと言われればそれまでなんだけど。でも沢山の顧客の相手をしてきたコンサルの私達から見れば、いつかこうなるんじゃないかって言っていたんだよ。思っていたとおりになった。誰もがそう思っているって」
「有り難う。でも、このままにしておいて。騒ぎにするのは簡単だから」
 それ以上はなにも言わず、苦い顔のまま黙っている僕。おばちゃんも女の子達もそっとしておこうと思ってくれたのかそのまま女の子達の休憩室へと消えていった。

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