奥さんに、片想い

「や、パパったら」
「しよう。今夜、しよう」
 彼女の丸い尻を撫で回しながら、僕は耳元で我を忘れて囁いていた。彼女の髪からいつもの爽やかで甘い香り、良く知っているのに今日の僕はとてつもなく興奮していた。
「わ、わかったから。うん、わかった……か、んっんっんっ」
 無理矢理、唇を奪って離さなかった。
「パパ、ママ?」
 長く一人きりにされた娘が、食卓から寝室へ向かってくる足音がして僕と美佳子はさっと離れた。
「ママ、どうしたの。梨佳、ひとりだよ」
「うん、ごめんね。梨佳ちゃん」
「パパもごはん、たべないの」
「うん。すごくお腹空いているよ」
 にこりと微笑む僕とは対照的に、美佳子は頬を染めたまま楚々と娘を連れていく。

 なのにその晩。娘を寝かしつけてからベッドに潜り込んで来た美佳子を、僕は抱かなかった。
「徹平君、寝ちゃったの」
 寝たふりをした。
「もう、そっちから誘ったくせに」
 ふてくされる妻の溜め息。暫く僕を恨めしそうに見下ろしている気配を感じながら、僕は必死に寝たふりをした。
 妻がベッドから出て行く。もうそれ程頻繁にセックスもしなくなって、本当に久しぶりに僕が誘ったのに……。
 僕だって本当は燃え上がったまま美佳子を抱き倒したかった。でも、それをしたら後の何もかもがなし崩しになって、美佳子のことなどどうでもよくなるような気がした。
 片思いだった憧れの女性から、『主人』となった僕がいつだって壊せる単なる一人の女。そこに彼女を貶めてしまうような気がして。
 美佳子。お前はどうなんだよ。憧れていたのは僕との結婚ではなかっただろう。本部に出世したあの先輩とか、大人の課長とか、そして積極的で自信があって女をどう喜ばせるかよく知っている心地よくさせてくれる男とか。そういう男との生活を夢見て頑張ってきていたはずなんだ。なのに、あいつらに泣かされ負けて僕のところに転がり込んできた。それで結婚はしたけど、本当に納得した結婚だったのだろうか? 後悔しても子供がいるから母親として頑張っているだけで、僕という男の事なんて。
 お前はもう自分で自分を貶めて、それで僕のところにいるのか?
 だから今夜は抱きたくても、抱けない。今抱いたら、きっと僕は美佳子を征服するように否定するように抱いてしまうだろう。

 美佳子もモヤモヤしたまま眠りについたことだろう。僕の身体も、男の身体も、ずっと鎮まらなかった。

 僕はなにをしているんだろう。嫌な男だ。

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