丹朱の橋、葉桜のころ
「深窓の令嬢でも気取ってるの」


声に誘われて、テーブルの一つを足掛かりに窓枠へ飛び乗ると、二分咲きの桜の木の枝にトラ模様を纏った彼女がいた。

あの夜も、ガランとした店内にはボクだけが残っていた。


「間違えている。令嬢とは、女に使う言葉だ」


凛と光る彼女の瞳に、ボクは見惚れた。


「いやぁね、わざとよ。からかっただけ。キレイな黒の毛並みね。ブラッシングしてもらっているんでしょう。お名前は?」


貶されながら褒められて、どうしたらいいのかわからないボクは結果から言えばひどく舞い上がった。


「……雅」


「ねえ、雅、外の世界を知らないなんて、男らしくないわ。いらっしゃいよ、こっちへ。」


ボクは精一杯男らしい声を出してやろうと力んだ。それなのに、


「ミャオ」


情けなくもかわいらしい鳴き声になってしまい、ボクは恥入った。


「ふふ、いいのよ。恋はね、男の声をかわいらしく湿らせて、女の瞼をまどろむように重たくするの。そういうものなの」


そうしてボクと、たくさんの名前を持つという彼女は、隔てられたガラス越しにキスをした。

鼻先のキスの記憶……、それはトラ模様の彼女とのものだったのだ。



ゲージに入れられ、やたら苦い臭いのする髭モジャおやじのところへ連行されて、眠っているうちにラッパを首に捲かれたのは、その翌日のことだった。
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