愛を教えて
どこをどう歩いたのかわからない。もちろん、エキストラルームには行かなかった。


万里子は今、リッツのロビーにいる。

しばらく同じ場所にいると、『お身体の具合でも?』とコンシェルジュに話しかけられた。

万里子に観光を薦めてくれた人だ。穏やかなまなざしが父を思わせる。その父を怒らせ、振り切ってまで卓巳について来てしまったのに。

こみ上げそうになる涙をグッと飲み込み『大丈夫です』と万里子は微笑んだ。


一旦は正面入り口を抜け、外に出たのだ。

だが、こんな時間とはいえピカデリー通りはたくさんの人で賑わっていた。万里子もすぐに声をかけられ、『ハッピーニューイヤー!』と抱きつかれそうになり、怖くてすぐに戻って来た。


万里子の男性恐怖症は治まった訳ではない。

今夜のパーティも、卓巳が横になっているときは大変だった。万里子の考え過ぎで、相手は紳士的にエスコートしてくれているだけかもしれない。だが、腰や背中に触れられるのは、彼女には耐え難い苦痛だった。

ライカー社の社長にしてもそうである。

まるでスクリーンから抜け出して来たかのような、整った容姿の男性であることは間違いない。だが、彼の視線は苦手だ。ロンドン支社長から、『最重要人物です』と言われていなければ、真っ先に逃げ出していただろう。

卓巳が割り込んで来てくれたときは、心の底からホッとした。

背中に庇われ、カウントダウンのときは抱き締められて、キスされた。万里子の瞳には卓巳しか映らず、耳に残るのも卓巳の声だけである。

仄かな期待を裏切られ、万里子は大声で泣きたかった。

でも、ホテル内で万里子の顔は知れ渡っている。こんなところで泣いていたら、夫の卓巳に悪い評判が立つに違いない。


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