リスタート ~最後の恋を始めよう~ 【前編】
心地よい疲労感が漂う会話のない車中で、唐突に、林田が沼田の名を呼んだ。

「入社して五年だったな」
「はい」

事故を起こさないでねと、明子がそう手を合わせ祈りたくなるほど緊張している沼田の声に、林田は「そんな緊張するな、取って食おうってわけじゃないぞ」と豪快に笑った。

「スピーチ恐怖症といったか。人前で話すと極度の緊張状態になるとか。前の会議の時のスピーチは、確かにヒドかったが、今日ぐらい喋れば十分だぞ。よかったよ」
「あ、ありがとうございます」
「昇進試験、受けたらどうだ。そろそろ、主任になってもいいと思うぞ」

その言葉に、沼田だけでなく明子までもが息を呑んだ。
本部長直々の推薦を貰ったといっても過言ではない言葉だ。
それだけ、今日の沼田の仕事を評価してくれたということだと思うと、明子はすぐにでも君島に電話を入れたいくらいの気持ちになった。


(君島さん!)
(沼田くん、やりましたよ)
(本部長にまで、誉めてもらえましたよ)


目を細めて、顔をしわくちゃにして喜ぶ君島が、明子の心に浮かんだ。
その顔が見たくて、新人のころは必死になって仕事を覚えようと、明子は頑張っていた。

「確かに、スラスラと話せればそれに越したことはないが、口先だけで中身のないプレゼンでは意味がないからな。キミが作った報告書、よく出来ていたぞ」
「ありがとうございます」
「人にはな。階段を登るべきときが必ず来る。人生に、必ず、何度か来るんだ、そういうときがな。まあ、私の場合は、登った先の踊場から突き落とされるときも、用意されていたがな」

そう言って、また豪快に笑い出す林田に、ここは笑うべきなのかと明子は頭を悩ませた。


(誰かー)
(たーすーけーてー)


運転席の沼田も、口元をピクピクと引きつらせているのが、明子にも判った。

「キミは、今ちょうど、階段の前に立ってるんじゃないか? その時を迎えていると思うがな」

ひとしきり笑った林田は、また口調を改めて、話を締めくくる。

「君島くんとも、よく相談してみると良い」

そう言って沼田の話を終いにした林田は、今度は明子に目を向けた。
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