リスタート ~最後の恋を始めよう~ 【前編】
「あー。仕事なんか放り出して、山でも行きてえなあ」

どうやら、明子と同じようなことを考えていたらしい牧野に妙に嬉しくなって「そうですねえ」と、明子も素直に頷いた。

「いいお天気ですよね。鎌倉あたり、散歩したいなあ。冬、桜が咲くお寺があるんですよ」
「あー。なんつったっけ。花の寺。すいせん……とか何とか」
「瑞泉寺ですよ。行ったことあるんですか?」
「鎌倉アルプスを歩いたとき、何回か寄ったな」
「鎌倉アルプス?」
「北鎌倉から山の中を歩いて、鎌倉に出るハイキングコースがあるんだよ。金沢の方に出るコースもあるけどな」
「明月院から、天園のほうに歩いていくコースですか?」
「おう。なんだ、行ったことあるんだ?」
「一度だけですけどね。紫陽花の時期に。あの山道、鎌倉アルプスって言うんですか。天園で食べた筍のお刺身が、美味しかったなあ」
「そんなのが食えるのか?」
「筍が採れる時期はあるみたいですよ。私が行ったときは、なんとかまだあったみたいです」

肉食動物の仮面を付けているのに、胃袋はわりと草食動物のところもあるこの男は、生野菜でなければ野菜もかなり好きで、明子の話に目を輝かせているようだった。

「いいよなあ。鎌倉。山があって。海もあって」

老後は、鎌倉に移るかな。
半ば本気で言っているような牧野の声に、明子はつい笑ってしまった。

「もう、老後の話ですか?」
「考えたこと、ねえか? 六十、七十の自分。どんな人生、送っているのかなとか。孫ぐらいいるかなとか。このまま、一人でいるのかなあとか」

揶揄しているわけでもなく、抑揚ない平坦な声で告げられたその言葉に、明子の胸が詰まった。
ここ数年、そんな不安はずっと、胸の中にあった。

「……そう、ですね」

静かな声で、明子もそれに頷いた。
そうして、牧野と穏やかな気持ちで、こんな話をしていることに、明子は不思議な気分になった。
出会ったころには、絶対に、胸の内にあるはずもなかった漠然とした不安。
お互い、離れていたその間にも、確実に年を重ねてきたのだと、そんなことをしみじみと明子は実感した。
年をとるのも、そんなに悪くはないねと、明子は静かに笑った。
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