高天原異聞 ~女神の言伝~

「――」

 どうも慎也の家庭環境を聞かされるたびに、美咲は慎也が不憫に思えてそれ以上何も言えなくなる。
 本人が何とも思っていないところがまた問題だ。
 それとも、ひねたりせず真っ直ぐに育ったことを喜ぶべきなのか。

「夏期講習はあるのよね。真面目に出るんなら、いいわ」

「出る出る。ありがと、美咲さん。すごく嬉しい」

 空いている方の右手で本を受け取ると、掴んでいた美咲の手を引き寄せ、指先にキスをした。
 その素早さに、美咲は怒る間もなかった。

「じゃあね、美咲さん。好きだよ」

 にっこり笑うと、慎也は校舎へと戻っていった。
 何だか、自分はどんどん慎也に甘くなっていっているような気がする。
 こんな調子で卒業まで保つのだろうかと、なんだか心配になってきた。
 そんなことをつらつらと考えていると、一般用のエントランスから誰かが入ってきた。

「すみません、本を借りたいのだけれど、カードを作っていただけるかしら」

 そう美咲に声をかけたのは、とても美しい女性だった。

「は、はい。こちらに記入をお願いします」

 長く真っ直ぐな黒髪が人目を惹く。
 二十代後半に入ったばかりだろう。
 きりっとした目元が微笑むととても印象的で、ノーメイクにも見えるのに、肌の美しさが際だっていた。
 登録票を見ると、丁寧な字で、坂崎綾《さかざき あや》と書いてあった。
 滞りなくカードを作り、案内のパンフレットとともにカードを渡す。

「ありがとうございます」

 笑って受け取ると、女性は書架の方へと移動し、数分後二冊の本を持って戻ってきた。
 美咲が貸し出し処理をしている間に、

「父がここをよく利用しているって聞いたけど、本当に素敵な図書館ね」

 気さくに話しかけてきた。

「そう言っていただけて嬉しいです。またのご利用お待ちしております」

 去っていく後ろ姿も伸びた背筋が美しかった。
 坂崎という苗字に覚えはなかったが、左手の薬指に結婚指輪があったので、父親とは苗字が違うのだろう。
 今度常連の誰なのか聞いてみてもいいかもしれない。
 素敵な女性だったなと、美咲は息をついた。


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