高天原異聞 ~女神の言伝~

密かに知らせを受けた八上比売《やがみひめ》は、素菟《しろうさぎ》の後について黄昏の中を駆けていく。
 また夜にと言霊を交わし、別れたのは、ほんの朝のことではないか。
 亡くなったなどと、死んだなどと、偽りだ。
 何かの間違いだ。
 木々の間を縫って、八上比売はひたすら走る。

 早く、早く。

 その容《かんばせ》を見せて。
 今日の朝のように愛しさを隠さずに見つめて。
 優しく囁いて。
 それだけでいい。

「比売様、おりました!」

 先を走る素菟が叫ぶ。
 八上比売は顔を上げた。
 神気が輝いている。
 今までに感じたことのない大いなる神威を感じる。

 強い力。
 死の穢れさえかき消すほどの。

 そして、その神威の中心にいるのは、一柱の男神。
 生まれたてのように一糸まとわぬ裸身が、装束を再構成し、まとっていく。
 神気の揺らめきはそのままに、静寂が戻る。
 美しき天津神の二柱の女神が、一礼してふわりと天へ昇る。
 そして、矢の如く雲の彼方へと消え去った。
 後には神威を使い果たし、気を失って倒れこむ母神――刺国若比売《さしくにわかひめ》の姿と。
 立ち尽くす麗しき男神の姿が。
 長い髪が、ふわりと風に揺れて、誘われるようにゆっくりと振り返る。

 その容《かんばせ》は。

 己貴《なむち》のようでもあり、穴持《なもち》のようでもあった。
 己貴ではなく、また穴持でもないようであった。
 ただ、とても、以前とは違う――別な神に見えた。
 八上比売は、輝くほどの神気に圧倒されながらも、震える声で問う。

「貴方様は……」

「八上比売……」

 その一声で、わかった。

 この方は、穴持様ではない。
 自分の夫ではない。

 涙が零れる。

「素菟、母上を運んでくれ」

 素菟が一礼して、倒れている刺国若比売を運んで往く。
 後には、男神と八上比売だけが残される。
 ただじっと、泣きながら、八上比売は目の前の男神を見つめていた。
 まだ答えを聞いていないのに、わかってしまった。
 それでも、聞かねばならなかった。

「あの方は、穴持様は、何処に……」

「神去られた――」

 己貴は崩れ落ちる八上比売を抱きしめた。
 八上比売の身体は震えていた。

「何故ですか――!? 何故、このようなことに……っ」

「……すまぬ。八上比売」

 ともに愛しい者を失って、二柱の神は泣き続けた。





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