高天原異聞 ~女神の言伝~

 引き裂かれるような痛みと共に、己貴は現世に引き戻された。
 だが、理を歪めたために、己貴もまたもとのままの国津神ではなくなった。

 死に近き存在。

 それは、穢れに近き存在でもある。
 神気すら変わった。
 神威も上手く操れない。
 それなのに。

 誰も、何も気づかないのか。
 何故、何も気づかないのか。

 この身体すら、自分のものではない。
 失われた欠片を繋ぎ合わせているのは、兄の――穴持の身体だ。
 それなのに、兄の神霊はここにはない。
 自分だけがここに在る。
 満たされぬ虚しさが、御霊まで蝕んでいく。

 すでに自分は死んでいるのではないか。
 ここにいるのは、かけ合わされた器に込められた死神《ししん》の残り火なのでは――

 何もかもが空虚で、何の喜びも、怒りも、感じられない。
 生きていることすら忘れそうだった。

 もはや現世《うつしよ》には、いられない。
 いたくもない。
 兄を失い、中途半端に黄泉返ったこの身が、ここにいていいはずもない。

 八十神の兄達は己貴が生き残ったことを許すことが出来ず、絶えずその命を狙っていた。
 生きる希望を失った己貴は、何度も命の危険に曝される。
 いっそ死んでしまいたかった。
 だが、母である刺国若比売はそれを許さなかった。

「己貴、このままでは、そなたはまた殺されてしまう。穴持を失い、今またそなたまで失うなど耐えられぬ。どうか母の願いを叶えてくれ。木の国へ往くのです。大屋毘古《おおやびこ》様に救けを求めよ」

 己を護ろうとしない己貴の代わりに神威を使い果たし、命を救い続けた刺国若比売は、とうとう倒れて床から起き上がることも出来なくなっていた。

「母上……」

「母の願いを叶えてくれ。生きよ、己貴。その為なら、母は何度でも、神去るまで、この命を削ってみせる」

 涙ながらに乞う母の願いに、逆らうことは出来なかった。
 八上比売が刺国若比売の傍らに寄り添い、己貴へ告げる。

「母上様は私がお世話致します。どうぞすぐにお発ちください」

 出立は夜明け間近であった。
 誰にも気づかれぬように旅立つ己貴を見送るのは、八上比売と素菟のみ。

「八上比売、母上を頼む」

「お任せください。己貴様こそ、道中お気をつけて」

「……」

 何か言わねばならないと思いながらも、何も伝えられず、己貴は背を向けた。
 八上比売と素菟は黙ってそれを見送る。
 去って往く後ろ姿を、消え去るまでずっと。

「穴持様……」

 小さな呟きは、素菟には聞こえなかった。

 きっと、素菟は自分が夫である己貴を忍んでいるのだと思っているだろう。

 失ってしまった本当の夫を想っても、その名を最早口にすることは出来なかった。
 愛しい背の君の名残を、八上比売は静かに胸に刻む。

 ただ一夜の交合いであった。

 それでも、確かに慈しみ、慈しまれた。
 愛しさを隠さず、求め合ったあの夜をきっと忘れることなど出来ない。
 偽りのない言霊が、心に刻み込まれているから。
 その想い出で、自分は生きてゆける。

 愛しい方が黄泉返るまで、待ち続けられる。

 零れる涙を、拭い去ることはしなかった。
 ただ静かに、八上比売は泣く。

「お待ち致します、我《あ》が那勢命《なせのみこと》。貴方様がお戻りになる日を……」






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