高天原異聞 ~女神の言伝~
「久しいわ、闇。皆はどうしていた?」
木之花咲耶比売と呼ばれた女神は、静かに問うた。
「山津見の国津神は皆、豊葦原にて目覚めました。姉比売様が、我らを豊葦原に留めおきくださったのです」
「お姉様が……禍つ霊となってまで、私を思ってくださったのね」
美咲の中の女神が寂しげに咲う。
「比売様、何故に祖神《おやがみ》様のお身体にいらせられるのですか……? 我らはずっと比売様をお捜し申していたのです。姉比売様は間違いないと仰いましたが、大山津見《おおやまつみ》様は比売様ではなく、祖神である伊邪那美《いざなみ》様の神気を強く感じておられたご様子。我らには深く感じ取れず惑うておりました」
「黄泉返りを拒む私を、祖神様がお救けしてくださったの。記憶も神威も無くさず、この黄泉国から出られるように」
その言霊に、日狭女が驚く。
「なんと――では、遙か昔、ご一緒に黄泉国からお出になったのですか?」
「はい。女神様の神威により何も失わずに黄泉返る私の中に女神様は隠れ、誰にも知られぬように黄泉国から逃れました。黄泉返ってからは私が記憶と神威を封じた女神様の中に隠れ、おかげで只人として、見つかることなく今日まできました。女神に近い神々は女神の気配を感じ、私に近い神々は私の気配を感じるのでしょう。我が父大山津見命のように両方に近い神は両方を感じ取る――だから戸惑うのです」
一つの身体に記憶も神威もなくさずに二柱の神が入る――そのようなことは本来できぬはず。
だが、太古の女神――生と死を操る伊邪那美なら、できるのか。
建速は密かに微笑う。
「やってくれたな。通りで何処を探しても見つからぬはず」
その言霊に、日狭女がはっと、建速を見る。
「貴方様は……父上様の神霊を守護していた神威を感じます。もしや最後の貴神《うずみこ》ですか?」
「そうだ。奪われた伊邪那岐《いざなぎ》の神霊を取り戻しに来た。何処にいるか、そなたにはわかるか」
「生神《いきがみ》は、たとえ神霊であっても、黄泉国へ入ることは叶いませぬ。恐らく、闇の主が創る、闇の異界へ姉比売様とともに囚われたのでしょう。我ら黄泉神であっても、主の許しなくば入れぬ闇の檻――それが、闇の異界です」
建速が、眉根を寄せる。
「では、その闇の異界の入口を探さねば。入り口さえ見つかれば、神威を使って開けて見せようぞ。葺根、慎也につけた俺の神威を追って往け」
「御意」
葺根の神威が空間を歪め、姿が消える。
闇の異界の入口を探すべく、空間を渡ったのだ。
その場に残ったのは、道往神と宇受売、建速、慎也の身体を護る久久能智《くくのち》と石楠《いわくす》、闇山津見と木之花咲耶比売、そして、日狭女であった。
暫しの沈黙に、日狭女が躊躇いながらも、木之花咲耶比売に告げる。
「母上様――いえ、比売神様、貴女様方が黄泉国を去ってから、父上様が再びおいでになったのです。それも、まだうら若き天津神を伴って。かつての父上様のように、産褥で神去った妻を迎えに来たのだと」
「……え?」
木之花咲耶比売の容が驚愕に色をなくす。
「あの方が……私を、迎えに……?」
「日嗣の御子です。貴女様を求めて、父上様とともにやってきました。貴女様がすでにいないと知ると、胸も裂けんばかりに嘆き、戻って往かれました。以来、ここに来られた事はございません」
「あの方は、神去られたはず。それなのに、黄泉国に来られなかったのですか?」
「父上様同様、一度もこちらにはいらしておりませぬ。ですから、私は、貴女様方が黄泉国を出られたと同じ様に、なんらかの手妻で御子様も貴女様方を追いかけて往かれたと――」
美咲の瞳から、美しい涙が零れる。
「ああ、瓊瓊杵《ににぎ》様……」
美咲の中の木之花咲耶比売の密やかな言霊に、突如異変が起こる。
久久能智に抱き上げられていた慎也が閉じられていた目を開ける。
「父上様!?」
驚いた石楠が駆け寄るが、慎也は久久能智の手を離れ、立ち上がる。
久久能智が石楠を見やる。
「違う、石楠。神気が――」
慎也がその身に纏う神気は、慎也ではない、別の神のものだった。
その神気に、驚いた宇受売が跪く。
傍らの神田比古も、跪いた。
「御子様……?」
「宇受売、神田比古、久しいな……」
それは、天孫の日嗣の御子の神気であった。