高天原異聞 ~女神の言伝~

 静謐を湛えたその場に、するりと顕れたのは、九十九神と闇の主であった。
 何処までも続く闇の手前に、さほど大きくない館がぽつんと聳えるのみ。

「此処は――」

――夜の食国《おすくに》でございます

 満月に照らされた美しい館には、神々の気配はない。

「夜――月神は、此処にいるのか」

――はい。お独りで。天津神が独りやってきましたが、止めなければ御方様に無体な振る舞いをするところでした

 闇の主の眉が顰められる。
 黄泉国には、死者もいれば、黄泉神もいる。
 だが、此処には月神しかいないというのか。
 足早に進むと、館はすぐだった。
 九十九神が案内する扉をそっと開くと、調度の少ない部屋の奥に褥が見えた。
 そして、其処にぐったりと俯せに頽れている神が独り。

「夜!!」

 駆け寄って、意識のない月神の身体を引き寄せ、仰向ける。
 長い髪がかかる頬に触れて、容を覗き込むが、その顔色は蒼白で、夜着越しの仄かな温もりが感じられなければ、今にも神去ってしまいそうに見えた。
 抱き寄せた月神の身体は、自分が知っているよりも柔らかかった。
 夜着に隠されていても、すぐに女体だとわかる。
 その感触に、あの夢こそが現《うつつ》なのだと悟る。

「九十九神、私が眠っていた間、月神が来たな?」

 背後の九十九神の躊躇いが伝わってきた。

――はい、主様。御方様には主様に伝えぬよう申し遣っておりました故

「何故かと問うたか?」

――はい。主様が、望まぬ故と

「――」

 望んでいないのは、月神の方ではないのか。
 いつも、触れられるのを拒み、冷たい眼差しと言霊で遠ざかるくせに。

「……ぅ……」

 腕の中の月神が低く呻く。
 その眠りは、九十九神の言う通り苦痛を堪えるように視えた。

 何がこの月を縛りつけるのか。
 太陽の女神との確執以外に何があるというのか。

「九十九神、この領界に結界を張れ。誰も近づけてはならぬ」

――承知致しました

 九十九神が闇に溶けるように消える。
 闇の主が闇から産み出し、月神の変若水《おちみず》の神威を与えられた九十九神は、以前よりも強大な神威を持ち、意志を持ちながらも主の一部として意をくみ取る。
 瞬く間に夜の食国は九十九神の結界で覆われた。
 それを感じ取った闇の主は、月神に視線を戻す。
 未だ夢の中の月神は、しどけなく、艶めかしい。
 苦痛に身動ぐ姿も劣情をそそる。
 これも女体ゆえか。
 月神の額に、己のそれを合わせる。
 そして、月神の夢に、心を重ねた。





――そなたは、高天原に在ってはならぬ。夜の食国に戻れ。

――姉上!!

――よいか、月読。変若水は、もう誰にも与えてはならぬ。そなたの神威は、天津神にも国津神にも奪われてはならぬのだ。私を煩わせずに、夜の食国でおとなしくしておれ。

――姉上、私は――

――これ以上私を失望させるな。失望させられるのは、建速だけで十分じゃ。





 どれほど恋い慕っても、己のものにはならぬ太陽の女神。
 それでも、傍らに在れれば、それだけでよかったのに。
 女神の怒りに触れ、それさえも叶わなくなった。
 高天原を神逐《かむやら》いされ、この夜の食国に独り在る。
 寂しさが募り、彷徨った末に、闇の領界に迷い込み、闇の主と出会った。
 意図など、なかったのだ。
 初めは、ただ、独りである寂しさを分かち合える存在を見出して、嬉しかっただけ。
 あの、ともに在った穏やかな時間を、いつまでも重ねていきたかっただけなのに。
 思兼に、黄泉大神を探れと言われたあの時、頷かねばよかった。
 追放が解かれ高天原に還れるかもと、有り得ぬ期待を抱いて、友を謀った罰はあまりにも大きすぎた。

 夜見。
 自分は、どうして、そなたの手を振り払ってしまったのだろう。
 何故、あのような言霊を投げつけてしまったのだろう。
 あの穏やかな時を、失って初めて、どれほどかけがえのないものだったのか気づいた。
 悔やんでばかりのこの身が恨めしい。
 もう一度、あの時を取り戻したいと恋うる自分が厭わしい。

 そなたの心は、初めから自分にはないのに――




 闇の主の神威を以てしても、さすがに三貴神の夢をそのまま覗き見ることは出来なかった。
 だが、夢の中の月神の、言霊にならぬ様々な感情は鮮明に伝わってくる。
 その中に、穏やかで安らぐものは何一つなかった。
 稚い幼子のように脅えと哀しみ、苦しみに満たされた夢のみ。
 無垢故に、傷ついたこの命《みこと》を、愛おしく、憐れむ。
 せめて夢の中でならば、傷つかずにいればいいものを。

「――」

 夢を操る神威が満ちる。
 この孤独な月が、穏やかに眠れるよう、悪夢を消し去ることならば出来る。
 これから、いくつもの眠りが在ろうとも、安らかに満たされるように。




――夜。そなたを縛る悪夢はもう訪れぬ。目を開けよ。

――目を開けても、誰もおらぬ。独りになるだけだ。

――私が傍にいる。

――そなたが? 夜見、私の傍にいるのか?

――私がいる。だから、目を開けよ。そなたを煩わす夢から出て来い。




 触れ合っていた額が離れると同時に、月神は目を開けた。
 だが、視線は何処か虚ろであった。
 目の前の、本来此処に在るはずのない姿を見いだしても、訝しいとも思わない。
 それどころか、うっすらと咲っている。

「夢の、続きか……?」

「そうだ。これもまた夢だ」

 あまりにも近くで触れ合っているのに、これが現ではないと月神は思い込んでいる。
 あの、黄泉国での自分のように。
 だが、そうでなければ、これを現と思わなければ、こんなにも無防備に、容易く、近くに在ることはできぬのだろう。
 その証に、月神は、自分を拒まない。

「……夢ならば――」

 躊躇うように言霊を途切れさせる月神の頬に触れ、目合《まぐわ》わせる。
 神気が揺らぎ、神威が満ちる。
 月神の心を捕らえ、夢の続きだと思い込ませるのは容易かった。
 何より、月神自身がこれを夢と思い込んでいたいのだから。

「夢ならば?」

 白く細い腕が、問いかけた闇の主の首筋に絡まり、しがみつく。

「傍にいて、私を離さないでくれ――」

 吐息のように囁かれた言霊に、心が震える。

「――」

 惑わされてしまう。
 そして、それを拒みたくない。

 縋り付く柔らかな身体を逃さぬよう褥に組み敷く。
 抗うことなく横たわる身体は熱く、瞳は潤み、美しい唇は奪われるのを待っていた。

「そなたほど私を惑わせる者は他におるまい。月神とは、身も心もこのように移り変わるものなのか」

 答えを待たずに、薄く開いた唇を己のそれで塞ぐ。
 舌が絡み合い、吐息が交わる。
 深くくちづけても、待ち望んでいたように応えてくる。
 くちづけは甘く潤い、月神の与える変若水の神威は、闇の主にさらなる神威を与える。
 闇の神威が新たに増大し、夜の食国に広がっていく。
 すでに、この領域で闇の主に出来ぬことなどなかった。
 月を捕らえ、夜を制した。
 今ならば、高天原にとて降りられるほどだ。
 しかし、今はただ、この月を思うまま貪りたい。
 月神の口腔内を蹂躙しながらするりと帯を紐解く。
 ほどくのを待ちきれずに、襟元を引き下ろすと形のよい美しい乳房が露わになる。
 揉みしだくとすぐに噎び泣くような喘ぎが漏れる。
 桜色の先端に吸い付くと、歓喜に喘ぐ身体が更に誘うように押しつけられた。
 月神の身体は何処を味わっても、蜜のように甘く感じられた。
 味わえば味わうほど、のめりこむように更に求めてしまう。
 独りでいなければならぬ理由も、今となってはわかる。
 男神の時でさえ、人を惹きつけて止まぬのに、女神ともなれば、それを欲して高天原の神々でさえ諍い合うであろう。
 それほどに、この月神は輝《かぐ》わしい。
 その心も身体も奪いたいと思わずにはいられない。
 乱れた夜着から覗く大腿を押し開くと、奥の付け根はしっとりと濡れていた。

「夜――」

 濡れて誘う女陰に欲望を突き立てると、月神が嬌声をあげて身を仰け反らせた。
 そのまま奥深くまで入り込むと、逃すまいとするかのように中がうねり締めつける。

「――今までどれほどの神に、この身体を許したのだ」

 激しく突き上げられ、揺さぶられながら、月神が頭を振る。

「あぁ……男神の身体は穢されたが……この身体は……そなたしか、知らぬ……っ」

「私だけか――」

「……そう、だっ……そなただけ……あ、ぁ……」

 その言霊に甘美な喜びを感じ、よりいっそう深く身を沈める。
 虚ろな身体を深く満たされて、月神が喘ぐ。

「夜見……夜見……」

 逃すまいとするかのように、しがみついて来るのが愛おしく、何度昇り詰めても飽かずに求めた。
 匂い立つほど甘く熱い身体を丹念に愛撫すると、喜びに噎び泣きながらすぐに受け入れる。
 頑なな月が、驚くほど従順に応え、求めてくる。
 この夜の闇の中、誰も邪魔出来ぬ静謐の中で、闇と月は時の過ぎゆくままにただ、求め合った。







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