高天原異聞 ~女神の言伝~
「あ、貴方様は――」
山津見の国津神と天之葺根が、驚いたように、その死神を見据えていた。
すでに死神は闇にその身を隠すことなく、紅い瞳と、麗しい容が誰の目にも明らかになっていた。
荒ぶる神は、驚いてはいなかった。
一切の感情を隠したまま、ただ、死神を見据えていた。
「た、建速様、あれはまさしく八島士奴美《やしまじぬみ》様。ですが、あの紅い瞳は――」
訳もわからず、葺根が建速を見やる。
「下がっていろ、葺根」
その言霊に、葺根が従う。
その前に、建速が進み出る。
死神である八島士奴美が、神宝《かんだから》を護る葺根や宇受売、八塚に気づき、その前に立つ荒ぶる神と目合《まぐわ》う。
――父上……お久しゅうございます。今となっては、父上とお呼びするのも憚られますが……
「八島士奴美……何故だ?」
――死神となって、気づいたのです。私は、荒ぶる神の末ではないと。私は、八俣遠呂知《やまたのおろち》の末なのだと
紅い瞳がその時だけ、悲しみに揺らいだ。
――母は、すでに遠呂知《おろち》に穢されていたのですね。そうして、私を身籠もった……
「そなたの母は知らなかった。最期まで、俺の子だと思っていた」
――いいえ。気づいていました
静かに八島士奴美は告げた。
――必死で、その疑念を打ち消そうとなさっておいででしたが、心の何処かで気づいていたのです。だからこそ、私を遠ざけておられた
八島士奴美は咲った。
――ですが、そのようなことはもうどうでもいいのです。私はただ、妻を取り戻したいだけです。そのために、この遠呂知《おろち》の血すらありがたいもの。このように、死神となってさえ、強大な力を手に入れられたのですから。本来豊葦原を治めるべき遠呂知《おろち》の末が持つに相応しい神威です。私は、妻を取り戻し、豊葦原を治めて見せましょう。神宝《かんだから》をお渡しください。最後の一つです
「神宝《かんだから》は渡せぬ。これは、死神には扱えぬ。八島士奴美。誰の血をひこうと、現世の理を覆す理由にはならぬ。豊葦原はすでに人間の領界であり、生者の領界でもある。そなたはもはや豊葦原には、関われぬ」
――だから、諦めろと? 穢れた血を持つ私には、神宝《かんだから》を持つにも、咲耶比売を求めるにも相応しくないと
「そうではない。神宝《かんだから》は、天津神にしか扱えぬのだ。そなたが手に入れてもどうにもならぬ。そして、すでに木之花知流比売は――そなたの咲耶比売は存在せぬ。この世界の何処にも」
――そのようなこと、信じぬ!!
死神の言霊が、大気を劈く。
――妻が戻るべき器が、そこにある。天津神の血をひく人間が、そこにいる。どうにもならぬわけがない。私は妻を取り戻す――誰にも邪魔はさせぬ!!
八島士奴美の紅い瞳が、瓊瓊杵に寄り添う咲耶比売をとらえた。
――そなたは、我が妻ではない。姿や神気が同じでも、我が妻は独りだけ
「八島士奴美様……」
咲耶比売の瞳から、涙が零れた。
紅い瞳に見据えられ、夢で感じた愛おしさが甦る。
それは、この憑坐が覚えている姉の心の名残なのか。
――咲耶……我が妻よ。妹比売がこの憑坐から去れば、戻ってこられる。もうすぐだ……
かつては木之花知流比売の憑坐だった坂崎綾に、八島士奴美は問いかける。
しかし、其処にはもう木之花知流比売はいない。
禍つ霊の木之花知流比売は、神殺しの剣から放たれた浄化の炎に焼かれ、神去ることなく消滅したのだ。
「……いけませぬ、八島士奴美様。私が神去っても、姉は戻りませぬ」
――否、木之花咲耶比売はただ独り、我が妻のみ。本来豊葦原を治める者は私であり、その連れ合いは、姉比売なのだ。黄泉大神は誓約した。豊葦原を手にすれば、私の願いを叶えると
死神の言霊に、荒ぶる神が鋭く言い放つ。
「八島士奴美。黄泉大神には、そなたの願いをかなえることはできぬ」
――十種《とくさ》の神宝《かんだから》があれば、我が妻の魂も戻る。私は、妻を取り戻す。その為に死神となったのだ。妹比売よ、そなたも死神であろう。ならば、おとなしく黄泉国へ返れ。姉を禍つ御霊へと変えたその罪を、黄泉国で償え
「!!」
八島士奴美の言霊に、咲耶比売は蒼白となる。
震える身体を瓊瓊杵命がきつく抱きしめる。
「八島士奴美殿、やめてくれ!! 咲耶が悪いのではない。全ては私の罪なのだ!!」
――ならば、もろともに、神去るがいい!!
血のように紅《あか》い瞳が、二柱の神を見据える。
――そなたらの宿るその憑坐は、私と、妻のものだった。何故、今更現世に戻ってきたのだ。そなたらさえ戻らねば、我らは憑坐の中で、静かに、穏やかに、一緒にいられたのに。そなたらが祖神とともに還ってきたために、私の咲耶はいなくなり、我らの憑坐までそなたらに奪われた
「!?」
死神の告げる言霊が、瓊瓊杵と咲耶比売をさらに驚愕させた。
坂崎綾とその夫坂崎八尋には、すでに神降りがなされていたのだ。
禍つ霊の木之花知流比売とその夫たる八島士奴美が。
――『木之花咲耶比売』は、本来我が妻となるべき定めだったのだ。そなたが、私達の運命をすり替えたのだ。豊葦原も、国津神も、我が妻も、全て奪ったではないか。私から、これ以上何を奪うつもりだ
「……八島士奴美殿……」
返す言霊を失くし、瓊瓊杵と咲耶比売はただ立ちつくすしかなかった。
全てを奪われた八島士奴美にそれ以上何を言えよう。
愛しい対の命を取り戻したいと願う心を、十分に知っているのに。
それを奪ったのが、他ならぬ自分達であったとは――
――遠呂知《おろち》の性《さが》に、もう抗おうとは思わぬ。邪魔するものは、全て、呑み込んでくれる!!
八島士奴美の紅《あか》い瞳が見開かれ、大気を震わせる咆哮が放たれる。
同時に、その背後の闇から結界をうち破り、黒い水がうねりをあげてなだれ込んできた。
そのあまりの激しさに、神威を放ちながら建速が叫ぶ。
「黄泉の源泉か、持ちこたえろ、国津神!!」
建速の叫びとともに国津神が呼応する。
美咲と慎也を中心に、視えない半球の結界が瞬く間に敷かれた。
その半球は迫り来る黒い水を押し返すかのように広がっていく。
八百万の国津神々が、全ての神威を合わせて新たな結界を敷き、現世を呑み込もうとする黄泉の源泉を押しとどめているのだ。
「!!」
今度は、美咲が服の下に身に付けていた勾玉が淡い光を放ち、熱く震えた。
美咲はその震えに呼応するように、記憶にない言霊を発した。
「速秋津比古《はやあきつひこ》、速秋津比売《はやあきつひめ》、祓戸大神《はらえどのおおかみ》達よ、黄泉の源泉を止めて。あれは現世に在ってはならぬもの。死の領域に在るべきもの。古の約定に従いて、水の神威をして、この豊葦原から死の穢れを祓い清めよ」
その瞬間、水を司る神々の神威がうねるように轟いた。
国津神達の神威と重なり、八島士奴美を呑み込んだ黄泉の源泉とぶつかった。
黄泉の源泉が仄暗い黒の遠呂知《おろち》なら、水神の呼び寄せた現世の水は青白く輝く白の遠呂知《おろち》だった。
交わらずに絡み合うその様は神代の八俣遠呂知《やまたのおろち》を思わせた。
「!!」
言霊を発した美咲が、さらなる胸の痛みに耐えかねて、膝をつく。
「美咲さん!?」
慎也が慌てて膝をついて抱きとめる。
「美咲!?」
「母上様!?」
美咲に駆け寄る宇受売、葺根、八塚に続き、瓊瓊杵と咲耶比売も美咲に駆け寄る。
黄泉の源泉を押しとどめるため、国津神々達と建速は動けない。
代わりに八塚が美咲に触れる。
「建速様、呪詛です!! 母上様は、呪詛に縛られております!!」
咲耶比売も美咲に触れる。
「ああ……神威を使うことで呪詛が発動するようになっていたのですね。母上様の身体から、神威が奪われています。このままでは、黄泉国に引き戻されてしまうでしょう」
建速が小さく舌打ちした。
「この呪詛は――月読か」
神威を奪う呪詛――それは、神々にとっては死の呪いだった。
美咲が、咲耶比売を見上げる。
「……私、死ぬの……?」
咲耶比売が美咲の手を取る。
「いいえ。私がおります。これ以上母上様の神威が失われぬよう止めることならできます。私は、かつて母上様の半身でしたから」
咲耶比売の神器が揺らぎ、神威が満ちる。
咲耶比売が触れた手から、温かな神威が美咲の内に入り込み、胸の痛みが徐々にひいていく。
「……痛みが、弱くなった……」
「ようございました、母上様」
慎也の胸に抱かれながら、美咲は繋いでいた咲耶比売の手を握り返した。
「ありがとう……咲耶比売」
「いいえ。ですが、母上様。呪詛が消えるまで神威を使ってはなりませぬ。私の神威では、呪詛を打ち消すことはできませぬ故」
「ええ……」
そこでぎゅっと、慎也が美咲を抱きしめる。
「……慎也くん……」
見上げた慎也は、美咲よりも蒼白で、抱きしめてくれている身体は震えていた。
「ダメだよ、美咲さん。約束したよね、俺をおいていくのは許さないって。黄泉国へ行ったって、追いかけるよ。美咲さんがそうしてくれたみたいに」
自分の方が死にそうな顔をしているのに、と美咲は思った。
「おいていかないわ。ずっと一緒にいる……」
「俺は、伊邪那岐みたいに途中で引き返したりしないから」
こんな時だというのに、愛おしさで嬉しくなる。
一緒にいたい。
ただそれだけ。
そう願って、今も定めに抗っている神がいる。
叶わぬその願いを叶えるために、抗う死神が憐れだった――