高天原異聞 ~女神の言伝~

 宇受売の姿が現身《うつしみ》に戻り、地に着いた。
 神宝《かんだから》は、変わらずに現象していたが、すでにそれは神器ではなかった。
 神気を喪い、神威を喪った今、それはただの剣であり、鏡であり、玉であり、比礼にすぎなかった。
 葺根が鏡を、宇受売が剣と玉を、護り手である八塚へと渡す。

「比礼は、宇受売様がお持ち下さい。もともと、貴女様のものでございました」

「有難い」

「こちらこそ、口伝え通りの、素晴らしい神舞を拝見し、眼福でございます」

「それこそ十種《とくさ》の神宝《かんだから》のおかげであろう。よくぞ今まで神器を護った。そなたの一族に言祝ぎを。荒ぶる神の末裔に相応しき働きであった」

 宇受売と八塚、葺根が荒ぶる神を見やる。
 荒ぶる神もまた、頷いた。

「宇受売、八塚、葺根、よくやった。見事だった」

 慎也と美咲に入った瓊瓊杵と咲耶比売も、天津神と神器の護り手の傍らへとやってきた。

「宇受売様、葺根様、八塚殿……感謝致します」

 咲耶比売と瓊瓊杵に、宇受売が咲って応える。

「御子様と嫡妻様のお役に立て、ようございました。さあ、お戻りなされませ」

「宇受売……すまぬ」

 宇受売に促され、美咲の中から咲耶比売の神霊が抜け出た。
 一歩よろけたものの、美咲はそのまま瓊瓊杵である慎也に支えられ、体勢を整えることができた。
 咲耶比売が入っていた間の記憶もある。
 だからこそ、すぐに美咲は異変に気づいた。

「痛みが……消えたわ……」

 咲耶比売のおかげで弱まっていた呪詛の痛みが、完全になくなっていた。
 呪詛を打ち消すだけの神威はないと言っていたはずなのに。
 美咲は、咲耶比売を見た。
 咲耶比売は、憑坐に近づいたものの、神霊のまま静かに微笑んでいた。

「咲耶比売、まさか――」

 美咲の言葉に、咲耶比売は咲った。

――ご安心下さい。呪詛はこの身に引き受けました。

「咲耶!?」

 美咲を支える慎也の中の瓊瓊杵が、驚いて叫ぶ。

――瓊瓊杵様。お許し下さい。こうするしか、母上様を呪詛から解き放つことはできませんでした。母上様は、この豊葦原に在らねばならぬ御方。最後の刻《とき》まで、決して喪われてはならぬのです。豊葦原に在る神々とその末裔達よ。母神を御護り下さい。例え我々国津神が、全て消え逝くとも――

 咲耶比売の神気が揺らぎ、最後の神威が満ちる。

 その神威は、憑坐である坂崎 綾と坂崎八尋に注がれた。
 もう二度と、神々の犠牲とならぬように。

――この憑坐に、幸わいあれ。

 静かに、木之花咲耶比売の神霊は、憑坐である坂崎 綾の傍らから離れた。
 その姿は、神代の時と何ら変わることなく美しかった。
 その神霊を、白い炎が優しく包み込む。

――火須勢理《ほすせり》……?

――母上様、お供致します。今度こそ、離れませぬ

 温かな白い炎に包まれて、咲耶比売は微笑んだ。

――そうね、今度こそ、共に。

「比売様!!」

 山津見の国津神達が、咲耶比売の神霊を前に跪く。
 国津神々の嘆きがその場を満たした。
 静かに、大山津見命《おおやまつみのみこと》が近づく。
 老いた憑坐に宿る古き神も、その瞳に静かに涙を湛えていた。

――父上……姉様を喪い、こうなることはわかっていました……私達の御霊は二つで一つ。本来、どちらが欠けても生きられぬ定めだったのでしょう。それでも、幸せでした。愛しい方を愛し、愛され、これ以上のものなど何処にもございません。

「悔いはないか――」

――はい。望みは、全て果たしました。

 咲耶比売は満足げに咲った。

「ならば、よい。心安らかに、逝くがよい」

 その言霊に、嘆きは号泣となった。

「咲耶!!」

 慎也の身体を使い、瓊瓊杵の神気が揺らぎ、神威が満ちる。

 咲耶比売の神霊が白い炎ごと、瓊瓊杵の神威に包まれる。
 何をするつもりか悟った咲耶比売が叫ぶ。

――瓊瓊杵様、なりませぬ!!

 慎也の身体を離れ、神霊のみの姿で、瓊瓊杵は神威に包まれた咲耶比売を抱きしめた。
 神威に包まれ、二柱の神の神気が重なり、溶け合った。
 咲耶比売がその身に移した呪詛を、自身も神霊で引き受けたのだ。

――今生でも私を置いていくなど許さぬ。我らは対の命《みこと》、離れては生きられぬ。

――瓊瓊杵様……

 泣き濡れても美しい妻の容に優しく微笑むと、瓊瓊杵は荒ぶる神と国津神々を見据える。

――国津神々よ。私を結界の外へ。出た後は、再び結界を閉じるのだ。

「瓊瓊杵、何をするつもりだ」

 荒ぶる神が問う。

――私はもとより死神。死神で在るなら、幽世の領界で神威を使うことが出来る筈。かつて豊葦原を治めし者として天孫の日嗣に恥じぬ働きを致しましょう。

 瓊瓊杵の神霊が、妻から離れ、空に浮かぶ。
 そのまま、頭上を目指し、国津神の創った結界を抜ける。

――天孫の日嗣、瓊瓊杵が奏上致す。

 神気が揺らぎ、神威が満ちる。

 神霊のみで在っても、瓊瓊杵命から発する神気と神威は強大だった。
 太陽の女神と荒ぶる神の誓約により産まれた父神を持ち、造化三神の高御産巣日神《たかみむすひのかみ》の娘を母神とする瓊瓊杵の、類い希な神威が顕れる。

――我が今在るこの地は、豊葦原の中つ国、現世の青人草の領界なり。我の持つ神威全てとひき替えに、今一度、理を正し、幽世と現世を切り離し、本来あるべき豊葦原の姿に戻し給え。

 瓊瓊杵の神威に満ちた言霊が、幽世の闇を揺るがす。
 瓊瓊杵の神霊が、光を増していく。
 その光に熔けるように、闇が流れて、退いていった。

「星が……視える」

 空を仰いでいた国津神の呟きが漏れる。
 瓊瓊杵の神霊が浮かぶさらなる頭上では、確かに、天空の闇を切り抜いたように、大きな円が描かれ、そこに小さな光の瞬きが視て取れた。
 月こそはなかったが、星々が視えるだけで、国津神達の喜びは増した。

「日嗣の御子様が、幽世の闇をうち払われた!!」

 瓊瓊杵の神霊から発する光が次第に失われていくと同時に、円は広がっていき、豊葦原の夜の空を取り戻す。

「御子様――」

 宇受売が誇らしげに夜空を見上げる。
 本来なら、この豊葦原を永劫に導く方であったのだと、今更ながらに宇受売は思った。
 まさに、天孫の日嗣に相応しい、神威であった。






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