高天原異聞 ~女神の言伝~
「天照」

 名を呼ばれた時、幻聴だと思った。
 だから、閉じていた目を開けなかった。
 呼ばれる筈がないのだ。
 此処は天の岩屋戸。扉を塞いだ今、此処には自分独りだけ。

「天照」

 だが、もう一度、聞こえた。
 太陽の女神は、閉じていた目を開けた。

「――」

 闇の中に、自分を呼んだ者の姿が鮮やかに浮かび上がっている。

「建速――」

 名を呼び返され、荒ぶる神は小さく咲った。

「どうして此処に入ったのだ」

「入るだけなら出来る。お前がいるから。出ることは出来んがな」

 近づこうと踏み出す荒ぶる神に、

「近づくな!!」

 鋭く告げる。

「よくも私の前に顔を出せたな」

「お前が籠もれば高天原の秩序が崩れる。早く出て天津神々を安心させてやれ」

「秩序? 其れを先に崩したのはそなたではないか!?」

 あまりの怒りに目が眩む。

「そなたは、何をしたかわかっているのか!? 織女は、神御衣《かむみそ》を織る巫女神だったのだぞ!!」

 しかも、自分を裏切り、月読と交合った。

「天照。俺は、神逐《かむやら》いされても構わん。高天原にはどのみち留まれぬ。天命を受けた以上は。だが、斑駒は罪に問うな」

「罪に問うな? 天之斑駒は畏れ多くも太陽の女神の神御衣を織る巫女神を殺したのだ!! それが天に叛く大罪だと知りながら、後先も考えずに唆したというのか。
 そなた独りが正しいのか!! 全てを壊し、何もかも踏みにじり、裏切り去っていくことが正しいことか!?」

 こんなにも自分を傷つけて、平気な顔で去って往こうとする男が憎かった。

「いつかお前にもわかる」

「わかりたくもない。いつかだと? 今わからぬのならば、いつかなど何の意味もない。これがそなたの言う天命ならば、永久にわからずともよい」

 涙を視せるまいと、太陽の女神はその美しい容を背けた。
 衣擦れの音がして、荒ぶる神が黙って座り込んだのがわかった。

「――」

 ともに在れぬのはわかっていた。
 だから、せめて自分の織った布で御衣を作り、咲って送り出したかったのだ。
 全てを覆す天命を受けたから、追い縋ったりしないよう、心も視せなかった。
 それなのに。
 月読とともに、自分を裏切った。
 それが、許せない。
 それ以上考えたくなくて、再び太陽の女神は目を閉じた。





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