高天原異聞 ~女神の言伝~

 暗闇の回廊を歩き続ける荒ぶる神と八塚の眼前に広がるは、未だ暗闇のみであった。
 不意に荒ぶる神の歩みが止まる。

「この水は――黄泉の源泉?」

 荒ぶる神に抱かれた幼子の姿の八塚が視線を下ろすと、荒ぶる神の足下には清らかな水が満ちていた。

「建速様、母上様の気配を感じますか?」

 荒ぶる神は、じっと暗闇を視据える。

「わからん。美咲は何処だ。何故、美咲を感じない?」

「もしや母上様の記憶が、戻ったのでは? それ故に、記憶のなかった母上様を感じることが出来ないのでは」

「有り得ん。伊邪那美と美咲は一つなのだ。神代の記憶がなくとも、俺が美咲を――伊邪那美を視誤ることはない。だからこそ、今生で視つけ出せた」

「ならば、何らかの理由で母上様は暗闇の回廊からも引き離されているのでは?」

「――そう考える方が妥当だな。おそらく、夢に囚われる間に、何かが起こったのだろう」

 咲耶比売は、美咲が只人のようであったと語った。
 それ以前の美咲は、咲耶比売にとって神であったということだ。
 美咲が只人となるなら、それは伊邪那美が別たれたことを示す。
 今の美咲は命のみ。

 現身と命が別たれるのならば得心がいくが、命が別たれることなど在り得るのか――

 身動ぎせぬ荒ぶる神の足下の水面が不意に揺らいだ。
 前方から、波紋が静かに広がって来る。

「哀しみが、共鳴(ともな)りしています」

 八塚が告げる。

「共鳴り? 何と――否、誰とだ?」

「わかりません。ただ、とても、強い愛しさと哀しみを感じます」

 八塚が胸を押さえる。

「降ろしてください、建速様」

 荒ぶる神が、そっと八塚を抱き降ろす。
 八塚は靴底が浸るほどの深さを静かに進み出で、波紋が生まれる中心へと近づいた。
 そのまま跪き、水に手を触れる。

 八塚の神気が揺らぎ、神威が満ちる。

 不意に、波紋の揺らぎが大きく、速くなる。

「建速様、母上様が!!」

 跪く八塚が覗き込んだ先に、いつしか美咲の姿が視えていた。
 水の中に閉じこめられたように動かない美咲。
 荒ぶる神が八塚の傍らに跪き、水の中へと手を伸ばす。
 だが、美咲を包み込んだ水は、頑なにその手を阻んだ。

「美咲、目を覚ませ!!」

 荒ぶる神の言霊が暗闇の回廊に響く。
 だが、応えはなく、沈黙のみが響き渡る。

「これは、黄泉の源泉ではありませぬ。これは、母上様の流した涙です」

「根の堅州国を産み出す源となった哀しみの具現か。ならば美咲は、今、死とは別の夢の中に在る」

「何れかの神の夢と共鳴りされているならば、その夢が終わるまで母上様は目覚めないということですね」

「ならば待とう。伊邪那美を捜して彷徨った時を思えば、夢が終わるまで待つなど、一時であろう」

 柔らかな波紋に揺蕩いながら、荒ぶる神は座り込み、吐息をついた。





 夜毎、夜見との逢瀬を重ねることが当たり前となっていたある夜。
 姿見として使っていた水鏡が、震えた。
 喜びで、心が躍った。
 天照からの言伝えだと思い込んだから。
 水鏡に手を翳す。
 瞬く間に水鏡は此処ではない異界の先にある姿を映し出す。
 だが。

――お久しゅうございます。月の御方様。

「思兼――」

 その容を見た瞬間、血の気が引いていく感覚を覚えた。
 忘れかけていた忌まわしい記憶が、呼び起こされる。

「――何用だ」

――申し上げたき事がございますが、軽々しくお伝えできぬことなので、直にお会いしてお伝えしとうございます。夜の食国への(おとな)いをお許しください。

「ならぬ!」

 咄嗟に叫んでいた。

――月読様?

「私は、神逐(かむやら)いさされた身。そなたは、夜の食国には来られぬ。私が往こう。高天原と異界の狭間で、明日のこの時に。

――わかりました。それでは、明日お待ちしております。

 水鏡から、思兼の姿が消える。

「――」

 月神は、逃げるように部屋を出た。





 いつものように、月明かりの階を降りれば、夜見が咲って出迎えてくれた。
 その()みに、なぜか縋り付いて泣き出したくなった。

「夜見、明日からは暫し来られぬ」

 夜見の優しい容が、訝しげに月神を視つめる。

「何故だ?」

「――朔が、近いからだ。陰の気が、強くなる故に、この時は夜の食国で過ごさねばならぬ」

 朔では、この身は完全に女体となる。
 そのような姿を、夜見には視られたくなかった。

「そうなのか。朔が近いとそなたには逢えぬのか」

「ああ、そうだ」

「ならば私も朔が過ぎるまで此処へは来ぬ」

「何故だ」

「そなたと共に在る時間に慣れたせいか、此処に独りで在るのは寂しすぎる」

「――夜見」

 心が震える。
 偽りのない言霊に、胸が高鳴る。

「夜、早く戻ってくるのだ。私を独りにするな」

「ああ。すぐに戻ってくる。そなたは私の大切な友なのだから」

 夜見が優しく夜を抱く。
 抱きしめられれば心が安らぐ。

 ずっとこうしていたい。
 離れたくない。

 互いがそう思っていたのに、その願いが叶うことはなかった。




 思兼には会いたくなかった。
 せっかく忘れかけていた嫌な思い出は、思兼と結びついているからだ。
 あの時、思兼の言霊に従わなければ、こんな事にはならなかったのだ。
 そう思うことをどうしても止められなかった。
 それでも会わねばならぬのなら、夜の食国では嫌だった。
 天照さえ迎え入れたことのない自分の領域に初めて(おと)なうのが思兼では、ますます自分が穢されて往くような気さえする。
 月神が嫌々向かった異界の狭間には、すでに思兼が在った。

「思兼――」

「これはこれは。月読様。お久しゅうございます」

「何用だ。直に会って話すこととは」

「此の処、お逢いになっている方のことです」

 思兼の言霊に、月神の容が強ばる。

「――」

「さすが、月の御方様。神逐(かむやら)いされようとも、常にお心は高天原におありになる証。闇の主に近づき、探っておられるとは」

 何故思兼が夜見のことを知っているのだ。
 その思いが、思兼には全て読まれているようだった。

「月読様。これはまたとない機会でございますぞ。黄泉国の動向を探ることが出来れば、天照様もお喜びになりましょう。いずれ、神逐(かむやら)いも解かれるかもしれませぬ」

 高天原へ戻れる。

 そんな淡い期待が胸の内に沸き上がる。

 だが、その為に、夜見を探るなど――

 月神の逡巡を、思兼は容易く読み取った。

「月読様、よもや黄泉大神に心を寄せて、天照様を裏切ることなど在りませぬな?」

「何を言うのだ、私は――」

「闇の主は、貴方様が神逐(かむやら)いされたことを知りながら黙っているのです。高天原の動向を探るために」

「莫迦な――そのようなこと」

「そうでないと言い切れるのですか。神代が始まりし時から成りませる古き神ですぞ。彼の神は貴方様を騙し、言霊巧みに絡め取ろうとするはず。それが駄目なら、無理強いするやもしれませぬ」

「やめよ!! そなたに何がわかるのだ!!」

「月読様こそ、黄泉大神に惑わされて目が眩んでいるご様子。我々は、貴方様には太陽の女神の対として、高天原のために在って欲しいだけでございます」

 月神には、思兼の言霊がどうしても信じられなかった。
 否――信じたくなかった。

「私は、姉上を裏切ったりしない。そのようなこと、出来る筈がない――」

「そうですとも。ですから申し上げているのです。貴方様の働き一つで、天照様も、高天原も、安泰だと言うことを」

「――わかった。悪いようにはせぬ。もう去れ」

 それ以上、思兼と言霊を交わしたくなくて、月神が背を向ける。
 その背中に、かかる言霊。

「そう言えば、神直毘様と大直毘様はお元気でしょうか」

 月神の背中が強ばり、ゆっくりと振り返る。

「何故私に聞くのだ」

「天照様が天之岩屋戸に隠られし時、神直毘様と大直毘様が月読様にお話があると来られたものですから」

 思兼の容は、何の含みもないように視えたが、月神にはそれこそが怪しく視えた。

「兄上方にはお会いしていない。私は、独り部屋で休んでいたのだから」

「左様でございますか。ならばその通りなのでしょう」

 思兼はうっすらと咲っていた。
 その()みは、何もかも視透かしているようにも思えた。
 月神の背筋が冷える。

「その通りだ」

 月神は、それ以上何も視ずに夜の食国へと戻った。
 静かすぎる食国には、か細い月と幽かな星が瞬いているのみ。

「……」

 思兼は知っているのか。

「……いや、そんな筈はない」

 知っている筈がないのだ。
 あの時は、他の誰にも会っていないし、自分の身体のことも知られている筈がない。
 恐れることなど何もない。
 思兼の言霊など、信じてはならない。

 月神は、震える身体を支えながら空を視上げた。

 早く朔が過ぎればいい。
 そうすれば、夜見に会える。

 それだけが、月神の脆い心を支えていた。

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