高天原異聞 ~女神の言伝~

5 夢の終わり


 もう何度目だろう。
 奥まで入り込んだ指が蠢くたびに、喉からは淫らな嬌声が漏れる。
 何度も嫌だと言ったのに、秘所を嬲る指はやめてくれない。
 指は蠢きながら感処をかすめ、その度にびくびくと腰は揺れ、中が指を締め付ける。
 そこではないのに、指はわざと別な処を刺激して、一番感じる処はかすめるだけ。

 もっと強く突いて欲しい。
 もっと激しく。

 指では物足りなかった。
 だから、指が抜かれ、もっと太く熱いものが後腔に押し当てられて、隠しきれぬ衝動に思わず腰が揺れた。
 早く入れて欲しい。
 その逞しいもので貫いて。
 待ち望んでいたものに犯される期待に、息を止め――

「――ぁっ!!」

 身体がびくびくと大きく震えて、目が覚める。
 目を開けると、そこには視慣れた天井が視える。
 下肢が先程までの淫靡な夢で熱く脈打っている。

「夢……」

 思兼に会ってから、悪夢に苛まれる日々が続いていた。
 身体とは裏腹に、心は凍えそうに冷めていった。

「――どうして……」

 あの時と同じだ。
 嫌だったのに、最後には、喜んで迎え入れた。
 女のように後ろを犯されて、貫かれる快楽に酔った。
 その快楽を、今も忘れられずにいる穢れた身体が厭わしかった。

「夜見……夜見……たすけてくれ」

 夜着のまま、月神は跳んだ。
 向かった先は、夜見と逢えるあの湖畔。
 夜の食国と同じに、誰もいないはずなのに、孤独を感じない。
 包まれるように温かく、受け入れられているように穏やかだ。

 夜見の姿はない。

 此処へは来ないと言っていたから当然であろう。
 在る筈がないのに、此処へ来ると少しだけ落ち着いた。

 此処にいれば、煩わしいことなど何もない。
 夜見と自分だけの世界で、ただ、幸せな気持ちで在れる。

「……」

 思兼に会うのではなかったと、月神は後悔した。
 夜見はかけがえのない友。
 自分を騙すことなど在る筈がない。
 それでも、思兼の言霊に心が揺れてしまう。

「夜見……」

 ふらりと、月神は湖へと足を踏み入れた。
 静かだった湖面が月神の歩みとともに波紋を広げていく。
 その様もまた、美しかった。
 腰まで浸かったところで 、月神は歩みを止めた。
 意外な冷たさが、先程までの下腹の淫らな熱を取り払ってくれた。
 まるで、身体に残る忌まわしい記憶を消し去るかのように。

「……」

 この水を飲めば、全てを忘れるという。
 いっそ、飲んでしまおうか。

 そんな思いが沸き上がる。
 両手を伸ばして、黄泉の源泉をすくう。
 白い手に、何処までも澄み切って美しい水が残る。
 暫し、月神はその手の中の水を、視つめていた。

「――」

 そして、徐にその手を離した。
 水は静かに手を離れ、湖面へと戻る。
 美しい手に、すでに水に触れた痕跡はなかった。

「……めだ……」

 駄目だ。忘れることなど出来ない。

 月神は、思い切れぬ自分に気づいていた。

 辛い記憶は捨て去ってしまいたいけれど、それよりももっと、忘れたくない記憶が、在るから。

「夜見――」

 涙が零れぬように容を両手で覆う。
 いっそ声をあげて泣き叫びたかった。
 だが、それも出来なかった。
 大きく息をついて、月神は身を翻した。
 歩き出そうとして、歩みを止める。
 岸辺に立つ、夜見の姿をその瞳にとらえて。

「――」

 常にない厳しい眼差しが此方を視据えている。
 驚きで動けぬ月神へと、夜見が真っ直ぐに向かってくる。
 湖面に立つ細波が、夜見の苛立ちを顕しているようにも思えた。

「よ――」

「黄泉の源泉を口にしたのか!!」

 語気も荒く問われ、更に驚く。
 月神の知っている夜見は、いつも穏やかで優しかった故に。

「――し、ては、おらぬ。そなたが言ったのだ――これを口にすると、記憶を失うと」

 戸惑いながらも、それだけを口にすると、ようやく厳しい眼差しがいくらか和らいだ。

「――ならば良い」

 優しく腕を引かれて、岸に上がる。
 そのまま身体ごと引き寄せられ、抱きしめられる。
 とっさに、腕を上げて、膨らみつつある胸が触れぬよう庇う。
 衣越しに手に触れる夜見の胸の鼓動が、常になく速く感じた。

「私を忘れるなど許さぬ」

 その言霊に、心が震える。

 私に忘れて欲しくなかったのか。
 私がそなたを忘れたくないと同じに、そなたも忘れられたくないと思ったのか。

 容を上げると、美しい琥珀の瞳がこちらを食い入るように視つめていた。

「夜見――?」

(みづら)を結わぬせいか――」

 夜見の手が月神の頬に触れる。
 琥珀の瞳に視据えられて、月神は動けない。
 空に浮かぶ月のようだと、月神は思った。
 初めて逢った時も、そう思った。

 飽かずに視つめていたくて、目を離せない――だから、近づく瞳を拒めるはずもなかった。

「――」

 唇が触れた途端、痺れるような感覚に互いが酔った。
 思わず目を閉じ、その感触を味わう。
 触れた唇から、今まで感じたことのない感覚とともに、陽の神気も流れてくる。
 その強さと心地良さに、抗えない。
 夜見から受ける陽の神気が、月神の身体を瞬く間に男神の姿に戻す。
 建速から神気を分け与えられた時よりも、遙かに強烈で、官能的にさえ思えた。

「あ、ぁ……」

 くちづけが深くなるにつれて、身体が熱く高まっていく。
 高天原など、どうでもいいと思った時、不意に思兼の言霊が思い出された。

――闇の主は、貴方様が神逐(かむやら)いされたことを知りながら黙っているのです。高天原の動向を探るために。

 違う。
 そうではない。

 心の中で必死に打ち消す。
 それでも、高まる身体とは裏腹に心が冷えていく。
 夜見の胸を、抗うように押し返すと、ようやく唇が名残惜しげに離れる。
 夜見の容は、常になく艶めいて視えた。
 きっと、今、自分も同じような容で夜見を視つめているのだろうと月神は思った。

「夜よ、そなたを神逐(かむやら)いする太陽の女神など捨て置け。太陽の女神こそ、そなたには相応しくない」

 その言霊に、月神はさらに心が冷えていくのを感じた。
 神逐(かむやら)いされたことを、夜見は知っていたのだ。
 思兼の言霊通りに。

――貴方様を騙し、言霊巧みに絡め取ろうとするはず。

「夜見――やめよ」

 身を返して逃れようとする。
 そこに後ろから抱き竦められ、乱れた夜着の上から肌を探られる。

「夜見……あ……いや……」

 強く抗いたいのに、夜見の手の心地良さに、ままならない。
 実際に、その弱々しい抵抗は、夜見にとっては焦らし、誘っているようでもあった。
 夜着の襟元から入り込んだ指が膨らみのない胸の頂を探ると、月神は嬌声をあげた。
 月神は抗いながらもその手の心地良さに抗いきれぬまま、また下腹が淫らな熱を帯びる。

「いやぁ……ああぁ……」

 兄弟神に犯された忌まわしい思い出が重なる。
 夜見が触れているはずなのに、身体は悦んでいるはずなのに、心は恐怖で満たされていた。
 振り返って確かめたいのに、出来ない。
 自分は何処にいるのだ。
 これは、現なのか。

――それが駄目なら、無理強いするはず。

 思兼の言霊が頭から離れない。
 何故このようなことに。
 自分はこれを望んでいたのか。

――それが駄目なら、無理強いするやも知れませぬ。

 違う。
 自分は、月神。
 天津神の、天照の対の命だ。
 男に淫らに犯されて悦びを感じるなど、在ってはならぬのだ。

「私に触れるな!!」

「!?」

 月神の神威が、夜見の身体を突き放した。
 互いの荒い息遣いだけが聞こえる。
 月神はきつく、目を瞑った。
 歯を食いしばり、乱れた夜着を整える。

「夜――」

 途方に暮れたような声音に、月神は振り返らなかった。

「血迷うにも程があるぞ。私は月神だ。そなたが触れる遊び女のように戯れに触れるなど、在ってはならぬ」

「夜、違う。戯れでは――」

「私は、そなたの動きを探れば、高天原に返れるのだ。だからずっと、そなたといただけだ」

 その言霊を告げた途端、胸を突く、激しい痛みが月神を襲った。
 痛みを堪えて振り返ると、自分を視ている美しい容が苦痛で強ばっていた。
 自分が感じている痛みを、今、夜見も感じているのだ。
 だが、それでも、自分の痛みに比べたらなにほどのこともない。

「――夜、何故そのような(いつわ)りを口にするのだ」

「譎り? 神は譎りなどいわぬ」

 ああ。きっと、胸を締め付けるこの痛みは、自分が譎りを告げているからなのだ。
 鋭い刃に貫かれるような痛みが身も心も苛む。
 だから神々は、譎りを語ることはせぬのだ。
 この痛みに、身も心も耐えきれぬから。

「見事に騙されていたな――」

 確かにそなたは、譎りなど口にしなかった。
 ただ、語らなかっただけ。
 そうして、互いに都合のいいように心地よい場を設けただけだ。
 それに、自分が騙されただけ。
 それだけ。
 それだけの、ことなのに。
 今はただ、同じ痛みを、味わわせてやりたくて仕方がない。

「我は三貴神ぞ。天津神ならともかく、そなたのような異形の者に身も心も許すなど有り得ぬわ!!」

 凍えた沈黙が降りた。
 互いに身動ぎ一つせぬまま、互いを視据えていた。
 俄に。

「――そうだな。そなたら天津神にとって、確かに黄泉神など、異形であろう」

 夜見のその声音は今までに感じたこともないほどに、冷たく響いた。

「だが、我ら黄泉神は、少なくとも友と呼んだ者を謀ったりはせぬ」

 傷ついたようなその声音に、月神の怒りは募った。

「先に謀ったのは、そなたの方だ!! 私が神逐(かむやら)いされたのを知りながら、知らぬ振りをしていたではないか」

「それは――」

 言い淀む夜見に、月神はそれこそが(いら)えなのだと思った。
 いつだって、自分の望む言霊をくれた夜見。
 言い淀むのは、それが真実だから。

「――」

 絶望が、心を凍らせていく。
 初めての友だと思ったのに。
 心を許し合うことがどんなに幸せかようやくわかったのに。
 全ては譎りだったのだ。

「――」

 言いかけて、月神はやめた。
 今更、何を言うのだ。
 無様に乞い縋る気か。
 三貴神で在る月神にも、矜持は在る。
 黄泉神にだけは、縋らぬ。

「もう、逢うこともなかろう――」

 それだけを言い捨てて、月神は夜の食国へ戻った。

「――」

 浮かぶ月はもう視えぬ。
 暗闇ばかりが続く静かな寂寞。
 同じ暗闇なのに、何処か冷え冷えとしていた。

 独りだ。

 ようやく、月神は泣いた。
 声をあげて、泣き叫んだ。

 誰にも届かぬ。
 何にもわからぬ。

 そうして、夜の食国から出ることをやめた。



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