真実の永眠
26話 暗影
『――あれからどう? 桜井さんとは』
 五月も中旬に差し掛かった頃、麻衣ちゃんから突然電話があった。
 学校は一緒だけれど、クラスも違うし校内で共にする友達がお互いに違う為、あまり込み入った話は学校ではしない。だからこうしてしょっちゅう電話を寄越すのだ。
 その会話の九割を占めるのが恋の話。
 ここで彼女が言った“あれから”とは、駅で優人と会った日ではなく、「それ以来あまりうまく行っていない」というのを彼女に相談した日の事を言っている。
「……今もまだ……微妙かな」
 うまく行ってるよ、そう言えないのが切なくて仕方ない。
『そっか……。疲れてたり忙しいだけだよ、きっと』
「……」
『学からも何も聞かないしさ』
 麻衣ちゃんには申し訳ないが、何だかもう、そんな慰めの言葉は無意味な気がした。
 私は何も言わずただ小さく、麻衣ちゃんには聞こえぬよう溜息をつくだけだった。
 彼女は続ける。
『それに本当に雪音ちゃんが嫌なら、あからさまに避けるか、メールの返事もしなくなるんじゃない?』
「……そうだよね」
 しかし、優人の場合はどうだろう。前者は有り得るが、後者は何があっても出来なさそうだ。
 自分に置き換えてみても、流石に後者は出来ない。それは相手が誰であれ、失礼極まりない事だから。一言断って連絡を絶つのが誠実な対応というものではないか。
『でしょ? ……うちらももう三年だし、進路についても忙しくなるじゃん? おまけに向こうは部活で大会もあるし』
「あ……」
 ……そうだ。
 部活の忙しさに加え、進路の問題も出てくる時期だ。
 優人の進路については何も知らない。夢なら知っているけれど。
 知らないからこそ考えた。
 これから優人はどうするのだろう、どんな道を進んで行くのだろうかと。夢が夢だけに、進学なのは間違いないが、どこに進学するのかまでは知らなかった。
 知らないからこそ考えた。知らないからこそ悩んだ。
 もしも県外の大学か短大を目指すのなら、この恋はどうしたって来年の春で終わってしまうのではないかと。たとえ自分の気持ちがずっと続いていても、彼が今のままずっと変わらないなんてまず有り得ないだろう。
 人は環境で嫌でも変わってしまう。自分が変わらなくとも人は変わってしまう。それが現実。だからこの恋はある意味期限付きなのではと、沢山悩んだ。
 こんな事言える立場ではないけれど、本当は遠くに行って欲しくない。
 自分はまず間違いなく地元に残るだろう。何故なら、今バイトとして働いているケーキ屋で、そのまま就職をするかも知れないからだ。
 県外に行って欲しくはない。それが正直な気持ちだけれど、もしも県外に行ってしまっても、それは仕方のない事だと思う。
 それでも自分は夢をずっと応援すると決めている。この気持ちが変わらない自信もある。どんな道でも応援する、笑顔で送り出す。
 そう、決めていた。
 沢山沢山考えて悩んで泣いて、そう結論を出したんだ。
『……そう言えば、』
 麻衣ちゃんの言葉に私の思考は“今”に戻された。
 言葉の続きを、黙って待つ。
『雪音ちゃんは桜井さんの進路知ってる?』
 え……? 進路――……。
「……知らない……」
 相手には見えないのに、私は頭をフルフルと小さく横に振った。
 夢なら……知ってる。
 その言葉は飲み込んだ。誰にも言いたくなかったので。
『短大、らしいよ。K短期大学』
 ――――!?
「それって……、」
『うん。すぐそこの』
 K短期大学――略してK短は、地元の短期大学だ。ここから車で十数分程度で着く距離の。優人はそこに進学を希望していると麻衣ちゃんは言っているのだ。
「……ほんとに?」
『うん。どこの科を受けるのかまでは知らないけど』
 そういえばK短には保育科がある。優人が受けるのは恐らくそこだろう。否、――間違いなくそこだ。
 どこの科を受験するのかを知らないという事は、麻衣ちゃんはきっと優人の夢を知らないのだろう。自分だけが知っているような気がして、それが何だか嬉しくなった。
『近いよね。もし一人暮らしでもするなら、K市に住むって事じゃん? 今よりチャンスが増えるんじゃない?』
「そう、かな? そうだといいんだけど……」
 そうは言ったものの、それは確実にないと思った。
 大学は高校よりもずっと出会いが多くなり、世界も広がる。寧ろそこで彼女を作ってしまう確率の方が断然高い。
 どちらにせよ、このままの状態が続けば、来年には何もかもが終わってしまうのだろう。辛くても悲しくても、それが事実だ。
 私は電話を耳に当てたまま俯いて、立てていた両膝に額を当てて顔を隠した。泣いてしまいそうだったので。
 殆ど男子校のような今の高校から、共学の短大へと進むのだ。彼女が出来てもおかしくはない。寧ろあの容姿と性格で、今彼女がいない事の方がおかしい。
『これからもチャンスはあるよ。……桜井さんと付き合えるといいね』
 それは温かい言葉だった。優しさが沁みる。
「……うん、ありがとう」
 麻衣ちゃんはこの恋が叶う事を心から望んでくれているのだろう。彼女からはいつもそれが伝わって来る。だから私は素直に感謝の意を伝えた。
『告ったりはした?』
 私は顔を上げて、困惑の表情を浮かべた。
「え……うーん、まあ、」
『え!? 告ったの!?』
「……うん」
『桜井さんの返事は?』
 遠慮のない問いに、少しばかり戸惑った。
 付き合っていないのだから、振られてしまった、若しくは返事を頂けていない事は少し考えれば分かるだろうに……。
「……『気持ちは分かりました。ありがとう』って。」
『……それだけ?』
「……うん」
 私は優人から言われた返事をそのまま言った。
『何か……肝心な返事がないよね。付き合ってくれるのかどうなのかの返事が欲しい所だけど』
 納得が行かない、とでも言いたげな声色でそう言う麻衣ちゃん。それは当然の感情だと思ったし、そんな事を言うであろう事も予想出来ていた。
「私が返事は要らないって言ったの。自分の気持ちを知ってくれるだけでいいからって。……その時は、優人が私の事をそんな風に見てないって分かってたから、その……やっぱり、振られたくなくて……」
『……そうだったんだ。いつ告ったの?』
「バレンタインを少し過ぎた辺り、だったかな」
 そう言って、それからもう三ヶ月は経っている事に気付く。
『あー、大分前でもないけど、最近でもないね』
「うん」
 私はベッドに上がり、壁に背を凭れ掛けて、足を伸ばした。その時、電話の向こうで、麻衣ちゃんが溜息をついたのが分かった。
『……何か、』
「……?」
 躊躇いがちに言葉を紡ぐ麻衣ちゃん。珍しいな、なんて思いながら無言で続きを促す。
『……桜井さんって、謎だよね』
「……」
 黙っている私に気にする事なく、更に言葉を続ける。
『自分の事あんまり話さないでしょ、桜井さんって。学に桜井さんの事聞いても知らない事多いし、雪音ちゃんから話を聞いても、何を考えてるのか分かんないし。前に駅で二人が話してるのを見てた時は、あの二人あのまま付き合うんじゃないかって、学と話してたくらいなのに、実際は付き合ってもないし……』
「……うん」
『それ所か、最近はうまく行ってないって雪音ちゃんは言うし……。桜井さんの行動って、何か掴めないよね。ほんとに謎』
 饒舌に言葉を紡ぐ麻衣ちゃんの口調には、怒気こそ含まれてはいないものの、何だか刺々しさを感じた。
「それは……あるね」
 私は溜息混じりの苦笑で、それだけ呟いた。
 麻衣ちゃんの言葉は、自分も思っていた。だから否定は出来なかったし、たとえ自分がそうは思っていなくても、結局は納得をしてしまい、否定をしてあげる事は出来なかっただろう。
 暫く沈黙が続く。それを破ったのは麻衣ちゃんだった。
『桜井さんについて何か分かればいいんだけどね。また学に聞いてみるよ』
 二人の協力が、素直に嬉しいと思った。しかしありがたくて、申し訳なくも思ってしまった。
 ……彼女達に、何も返せていなくて。
「何か、ごめんね。……ありがとう」
『いいよいいよ。協力出来る事があればするし、何か聞いて欲しい事があれば何でも言って。学に聞いて貰うからさ』
「ふふ、ほんとにありがとう」
 私は何度もお礼を言った。友達のありがたさと大切さを、改めて知った気がした。
 私達は、今度またご飯食べにでも行こう、ゆっくり話そう、そんな約束をして、電話を終えた。



 時計を見上げると、時刻は二十三時を回っていた。随分と長話をしてしまっていたようだ。
 もう寝ようと、電気を消してベッドに潜り込んだ。
 この時期、寒くも暑くもなく、寝心地がいい。
 ゆっくりと、目を閉じた。
 ――桜井さんって、謎だよね。
 麻衣ちゃんの言葉が脳裏に蘇って、閉じていた目を開けた。
「謎……、」
 ――そういえば以前理恵ちゃんも、似たような事を言っていなかったっけ。
 それだけ、分からない人物なのだろう、桜井優人という男は。
 良くも悪くも、彼は何も語らない。誰にも、何も。
 優人……。
 私は仰向けの身体を横に向けて、布団で顔を隠した。そして目を閉じる。
 暗雲が、立ち込める。
 彼についてまた一つ知る事が出来たのに、期限付きの恋ではなくなって嬉しい筈なのに、気持ちが晴れないのはどうしてだろうか。
 そんな事を考えても、やっぱり分からないから。結局考えるのをやめた。
 今この眠る時間だけでも、頭から、そして心から優人の存在を拭い去ってしまおう。
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