真実の永眠
39話 残酷
 広島に来て、一週間が経過した。
 荷物が比較的少なかったお陰で、全てを整理整頓するのに三日程で済んだ。
 到着し、初めてこれから住む家や町並みを見た時は感動した。
 アパートは新築で、外観も中も立派だったし、都会過ぎず田舎過ぎない丁度いい、店や交通に不便さもない、理想通りの場所に位置していたからだ。
 荷物を全て片付けると、まず初めにしなければならないであろう仕事探しを放棄し、四人でそれはもう広島の地を探検の如く歩き回った。
 美姫さんはこの県の出身だけれど、この市の出身ではなかったから、地理を覚えなければならないのは私達と同じだった。
 初めて見るものが沢山あって、驚いたしとても楽しかった。自分はこんなにも田舎者だったんだと、改めて気付かされた。



 流石都会、というだけあって、皆すぐに仕事が決まった。十月初旬には仕事を開始出来る状態だ。
 私と夕海は、車で五分程走った所にあるスーパーで勤務する事になった。二人共、同じ場所で。姉妹で働く事に最初は抵抗があったが、未知の世界と言っても過言ではない程に今までとは異なる地に来た自分達にとって、姉妹が同じ職場にいる事は多少なりとも心強いものだった。
 職場は、自分達の属する職種は少人数だった為、仕事にも人にもすぐに慣れた。初勤務の日も、もう何ヶ月か働いているんじゃないかと思う程だった。
 広島に来てから、毎日が発見だらけでとても楽しかった。
 一ヶ月なんてあっという間に過ぎた。
 楽しい。毎日は本当に楽しく、明るく過ぎて行った。
 もう、十一月。
 楽しくて、いつも笑っていたと思う。
 なのに。
 充実した毎日の中、それでも何故だか心は満たされなかった。何故だかって何だ。理由は、自分が一番分かっている筈なのに。



「……ねぇ、」



 初めて私と夕海二人の休日が重なった日。
 今日も夕方まで色んな場所に出掛けていた。
 帰って来て二人で部屋で寛いでいる時だった。テレビを観ている夕海に、私が声を掛けたのは。
「ん?」
 私の静かな呼び掛けに、夕海なりに何かを察したのか、夕海は真剣な表情をこちらに向けてきた。
 テレビから聞こえてくる音は、場違いな程騒がしく明るいものだった。



「……忘れられない」



 ポツリと呟いたこの一言で、空気は重くなった。
「……」
 夕海は、これだけで全てを理解したのだろう。訝しむ表情などせず、真剣な表情のままだった。
 私はもう一度、言った。
「……優人が、忘れられない……」
「……」
 夕海は、私の言葉に返事はしない。けれど、悲しげな表情をして、視線を下に向けた。
 私はベッドの上から、窓の外を眺めた。暗くなった街。明かりが綺麗な、街。
 私は深い溜息をついた。
「……優人の事、今でも……」
「わかってるよ」
 私は窓の外に向けた視線を、外さなかった。夕海の言葉を聞いても。
 そう、言ってくれると思った、夕海なら。
 知らない訳がない。今まで優人の事をずっと相談してきたから。優人の事など何も言わず明るく振舞う今でも、きっとずっと気にかけてくれていたのだろう。
 夕海がテレビを消した。部屋が急に静かになる。だけど、外から車の走る音が聞こえてくる。
「……優人、どうしてるかな……」
 溜息に混じってぽつりと呟かれた私の言葉に、夕海が顔をこちらに向けた。気配で分かった。
「メール、してみたら?」
「……忘れる為にこっちに来たのに、それじゃ意味がないよ」
「どうせ忘れられないんだから」
「……」
 膝を立ててそれを抱え込むような姿勢で外を眺めていた私は、視線をそこから外し、顔を膝に埋めた。
「今忘れられるなら、とっくに忘れてるよ」
「……」
「お姉ちゃんはどうやったって、優人さんを忘れられない。そんな事容易く出来る程、軽い気持ちなんかじゃない」
「……」
「でしょ?」
「……うん」
 泣いてしまいそうだった。これ以上何かを言えば、声が震えてしまいそうだったので、もう何も言わなかった。
 自分でも分かっている。こんな事をしたって、優人を忘れられる筈がないと。簡単に忘れられるものなら、過去にどこかで忘れられた筈だ。辛ければすぐにやめている。……でも、それだけは出来ないんだ。意地なんかじゃない。……片想いが長くても、何の自慢にもならない。辛いだけだ。
 過去に、男性から告白された事もあった。広島に来てからも、自分の事を好いてくれる人はいた。だけど、それでもやっぱり、優人じゃなきゃ駄目だった。
 どんなに素敵な容姿に素敵な性格をしていても、優人の容姿をした人が例えば現れたとしても、それでも、“桜井優人”が良かった。
 涙が零れた。
 優人に、会いたかった。寂しかった。
 だけど、そんなの彼女じゃないのに言えない。
 ズズっと、つい鼻を啜ってしまった。今ので、泣いている事が夕海にバレてしまっただろう。
「……」
「……」
 沈黙が流れる。夕海は何も言わなかった。



 ――……コンコン、っと。
 部屋の扉が誰かによって叩かれた音がした。
 私は顔を上げず耳だけを澄まして、夕海は扉に視線を向けた。(これも気配で悟る)直後。
「入るぞ?」
 兄の声だ。
 その声に夕海が簡単に返事をすると、兄が扉を開けた。
「……え? 何だよこの空気……」
 扉を開けるなり、兄はそう言った。
 先刻の会話の所為で、空気が重くなってしまったから、それをすぐに察知したのだろう。
 夕海が苦笑する。
「あれ? 雪音、お前泣いてんのか?」
「……別に……」
 私は袖で涙を拭いながら、そう言った。
 どうして明らかにそうだと知られているのに、こういう時は「別に」と言ってしまうんだろうか。「怒ってるのか?」「別に」のような。少し謎だ。
「また優人ってやつの事か?」
「……」
 私が涙目のまま夕海を見ると、目が合った。兄の言葉が図星だったから、お互いに苦笑した。
「……まぁ、忘れられない気持ちも分かるけど……、」
 はは、何が分かると言うのだろう。私の気持ちは兄と同じではないのに。
 私はゆっくりと顔を上げ、兄に視線を向ける。
 兄はそこで言葉を区切ると、続きを言ってもいいのか躊躇う、何とも言えない表情をした。
「……?」
 その表情を見た私は、訝しげな表情に変わる。夕海も、続きを待っているようだった。
「……ちょっとキツイ事言うぞ?」
「…………何?」
 聞く事を少し逡巡した後、私は短い言葉で続きを促した。
 兄は溜息をつくと、



「もう、……無理だと思うよ」



「――……」
 兄は、そう言った。
 突き刺さる、――言葉。
 深く深くに。
「……もう二年半以上も想ってるんだろ? 優人君がお前を好きになるなら、とっくになってる」
「……」
 兄から視線を逸らし、ただ俯いた。
 容赦ない、兄の言葉を。いつか誰かに言われるだろうと思っていた。だって、本当は自分でも気付いていたから。恐らく兄と同じ気持ちを、夕海と麻衣ちゃん以外の人は皆思っていただろう。それを言葉にしたのが兄だっただけだ。
 傷付く私などお構いなしに、兄は続ける。
「好きでいるのは自由だが、……もう、諦めた方がいい」
「わか……ってるよ……。そのつもりで……こっちに来たんだから……」
 震える声。涙が、零れた。
「……まぁ、キツイだろうけど……。てかご飯もう出来てるぞ。美姫も待ってる」
 兄が部屋を訪ねてきた理由を、ここで知る。
「……もう少ししたら行くよ。先食べてていいから」
 そう言うと、わかった、と短い返事をして、兄は部屋の扉を閉めてリビングに向かった。
「……」
「……」
 ご飯が出来ているというのに、夕海が立ち上がる気配はなかった。
 涙を拭って夕海の顔を見ると、何故か夕海が酷く傷付いた表情をしていた。
「ふふ。何で夕海がそんな顔するの?」
 自分の事のように傷付いている夕海を見たら、少しだけ可笑しくなってしまい笑ってしまった。
「……だって……」
 辛そうな表情をして、言葉を濁す。
「別に夕海は気にしなくてもいいよ。お兄ちゃんの言ってる事は正しいし……。多分、みんな思ってた事だと思うよ。自分でも……わかってたし」
「――でも!」
 どこか諦めたように言う私の言葉を、夕海は強く否定した。
「……確かに今は、優人さんはお姉ちゃんの事を好きとは思ってないかも知れない。でも、これから先はわからないじゃん! いつか好きになってくれるかも知れないんだよ!」
「そういう可能性も、もしかしたらあるかも知れないけど……お兄ちゃんは同じ男だから、男としての気持ちがわかるんだよ」
「同じ男だけど、お兄ちゃんと同じ気持ちな訳ないじゃん! お兄ちゃんと優人さんは違う!」
「……」
「……諦めちゃダメだよ。諦めたらお姉ちゃんじゃない……」
 夕海の言葉が嬉しくて、笑った。
「……確かに、優人とお兄ちゃんは、全然違う」
 そう、優人は誰とも似ていない。似ていたとしても、別人なんだ。
 そんな風に結論を出して、先程よりも心は軽くなったけれど。
「さ、ご飯食べようか」
 そう言って、私と夕海は、リビングに向かった。
 やっぱり私には、これからどうしたらいいのかわからなかった。



 諦めろ。諦めるな。
 どちらの言葉が、その人を救えるのだろう。
 今の私は……?
 兄から言われた「諦めろ」が、今の私にとって、とても残酷な言葉だった。だけど、残酷なだけではない事を、私は知っている。これが私の為になるのだと、兄は考え言ったのだろうから。
 夕海から言われた「諦めるな」が、今の私にとって、とても支えになる言葉だった。だけど、その言葉も、人によっては、苦しめる言葉になり得るのだ。
 言葉は深く、そして重い。
 いつか後者の言葉を、今は支えになるそんな言葉を、苦痛に思う日が……来ないといい。
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