真実の永眠
38話 決断
 通り過ぎる時間は早くて。
 ケーキ屋で正社員として働いて、もう五ヶ月が経とうとしていた。
 勤務時間が延びた事、正社員だけに教えられる仕事を覚えた事。この五ヵ月で変わった事と言えばそれくらいだった。
 平凡な、毎日。
 優人とは……。
 今までは、うまく行っていなくてもそれなりに連絡は取り合っていたのだけれど(とは言え、送るのはいつも自分からだ)、この五ヵ月、メールをした回数は十にも満たないものになった。
 ただ、高校を卒業したばかりだった三月の頃に比べ、送ったメール全てに返信があったので、それは良かったが。
 けれど、私達の距離は、どうしたってもう、縮まる事はなかった。
 忘れようと思った。けれど、やっぱり忘れられなかった。
 こんなにも距離が出来てしまった今でも、私は優人の事が大好きだった。
 だからこそ――。
「店長、」
 二十時になり、本日の仕事が終わった。
 他の社員がみんな帰ったのを確認した私は、レジの点検をしている店長に声を掛けた。
 店長がこちらを振り向くと同時に、私はまた言葉を発した。
「……店長、話があります」





 ――一カ月前。
「二人共、彼女との同棲の話を憶えてるか?」
 実家には殆ど帰って来ない兄が突然帰ってきて、私と夕海を呼ぶなり、そう言った。
 私達はこくんと頷く。
「色々話し合った結果、彼女の地元で一緒に暮らす事になったんだ。……だから、県外に行く事になる。彼女には二人が来るかも知れない事はちゃんと話してあるし、彼女もそれを快く受け入れてくれた」
 兄はそこで、一旦言葉を区切った。
 県外に行く事になるのだとほぼ決定している事はある程度知っていたから、聞かされた事実に然程驚きはしなかった。
 ただ……。
 私達は、兄から次に続けられる言葉を黙って待った。
「――場所は広島だ。ここからそんなに遠くない。とはいえ、車で五時間は掛かる距離だけどな。二ヶ月後の九月に引っ越す予定だ。……二人はどうする? 来るか?」
「……」
「……」
 私と夕海は、顔を見合わせた。
 こうなる事は、ある程度知っていた。ただ……、私はずっと、迷っていた。
 三月に兄からこの話を聞かされて以来、ずっと考えていた。迷っていた。
 色んな世界を見てみたいのなら、自分を成長させたいのなら、行くべきだ。行った方が、きっといい。
 だけど、残りたい気持ちもある。ここに残りたい気持ち、それはただ、優人がいるからだ。今彼は、K市で一人暮らしをしている。近くにいるんだ。
「……」
 私が黙っているからか、夕海も兄も黙っていた。
 二人共私の気持ちを知っているから、迷う気持ちを理解出来るのだろう。
「……お姉ちゃんは、どうする?」
「……」
 暫くの沈黙後、夕海に尋ねられたが、私はやっぱりすぐには答えられなかった。
「夕海、お前は?」
 兄はこちらに向けていた顔を今度は夕海に向けた。
「あたしは、お姉ちゃんが行くなら行ってもいいかな」
 夕海はそう言ってこちらを向いた。
 それはそうだろう。私が行かず夕海が行くと言ったら驚きだ。尋ねた兄ですら驚くだろう。やはり私が答えを出さなくてはならないみたいだ。
 けれどどうしても、すぐに決められなかった。
「……今すぐに答えを出さなくてもいい。ただ、県外に行く事は確実だから、一ヶ月以内にはどちらにするのかを確実に決めておけよ。もし県外に行く事を選ぶなら、残りの一ヶ月で、引越しの準備をする」
「――……わかった」
 私の短い返事を聞いた兄は、それだけ言うと、また家を出て行った――……。





 私は一ヶ月前の兄とのやり取りを思い返していた。
 この一ヶ月、悩んで悩んで、悩み疲れる程に、悩んだ。
 そして私は、答えを出した。
 ――これからどうするのか。



「店長、私……、来月で、仕事辞めます。――そして、県外へ行きます」



 今でも、優人が大好きだ。それは変わらない。
 だけど、この想いは叶わないのだと、私は知っている。
 本当は諦めたくない。だけど……これ以上、しつこく付き纏ってはいけないから。これ以上彼に迷惑を掛けるような行動をしてはならないから。
 ――忘れるんだ。
 これは新たな道を歩む為、神様からチャンスを与えられたのかも知れない。
 県外へ行けば、新しい世界で成長も出来るだろう。今まで親に甘えて生きてきた私も、そのありがたみや大切さを学べる事だろう。
 こんな田舎に比べて、広島は都会だ。きっと多くを経験し、成長出来る。
 その世界はきっと、私の中から優人の存在を、消してくれる事だろう――。
 仕事も、今が一番楽しいんだ。ずっと、一番楽しい時に辞めたいと思っていた。
 嫌な時に辞めてしまったら、それは逃げている事になる気がして。一番楽しいと思えるまでになったこの職場を、気持ちよく去りたい。
 私は、優人に関してを除いた全ての想いを、店長に伝えた。
 店長は私の話を最後まで黙って聞いてくれて、応援すると、言ってくれた。
 この職場で働くのも、残り一ヶ月だ。
 その一ヶ月、今までここでお世話になった恩返しとして、精一杯頑張らなければ。
 私はこうして、新たな道を歩む為、……優人と離れる道を、忘れる道を、選んだ。






 県外へ引越しをするのだから、残りの一ヶ月は毎日がとても忙しかった。仕事の合間を縫って、荷造りも、色んな手続きもしなくてはならなかったから。
 私物は少ない方だと思っていたのだけれど、こうして荷造りをしてみると、意外に物が多かった事に気付く。
 引越し屋さんには何一つお世話になる事なく、自分達で全てを片付けた。
 県外へ行く事を報告すると、「じゃあ行く前に会おう!」と言ってくれた友達が何人かいて、食事をしたり遊んだりカフェでお話したり。まるでこれが最後かのように、私達は沢山話した。
 ――桜井さんの事は……?
 友達の中でその事を気に掛けてくれたのは、麻衣ちゃん、ただ一人だけだった。
 優人に恋慕を抱いた当初から、私の想いをずっと知っていて、応援してくれていたから。今でも応援してくれている。だから、“両想い”という最大の恩返しをしたかった。だけど……それは出来そうもなくて、酷く悲しくなった。










 一ヶ月は、あっという間に過ぎた。
 九月二十日。
 今日は、広島に発つ日だ。
 部屋の窓から外を見下ろすと、既に到着している兄とその彼女・美姫(みき)さんが、車の中で私と夕海が降りて来るのを待っていた。
「忘れ物はない?」
 バタバタと最後の準備に取り掛かっている私と夕海に、母が尋ねてくる。
「私は、――大丈夫」
 バッグを開いたり、部屋を見渡して忘れ物がない事を確認した私は、夕海に視線を向けた。
「あたしも……大丈夫かな。持っていく物そんなにないし」
「まぁもしも大事なものを忘れて行っても、お母さん後でそっちに送ってあげるから。住所は楓真(ふうま)に聞いてあるから」
 楓真とは、兄の名だ。
「うん、ありがとう」
 母にお礼を言うと、私達は兄達の元に向かう為、バタバタと玄関へ向かった。
「あ、最後まで見送るから」
 そう言って、私達に続いて、母ともう一人の妹・桃花も玄関までやって来て、靴を履く。
「桃花~、二度と帰ってこない訳じゃないんだから……」
 まだ小学五年生の桃花は、私達が行ってしまうのが寂しいのか、しくしくと泣いていた。
 その姿に少しだけウルッと来てしまったけれど、私は泣かなかった。夕海も僅かな微笑を浮かべるだけで、泣いてはいなかった。


「ごめんごめん! 準備出来たよ」
 そう言って、私達は後部座席へと乗り込んだ。
「遅いぞ」
 そうは言いながらも、兄達は不機嫌そうな顔はしていなかった。
 母と桃花は、寂しそうな顔でこちらを見ていた。
 助手席側の窓と、その後方の窓を両方開けて、二人に言葉を送る。
 因みに、父は仕事で殆ど家にはおらず、今日も仕事の為、私達の見送りは出来なかった。たとえ休みでも、こんな風に見送らなかっただろうが。
「じゃ、行ってくる」
「行ってくるね」
「色々お世話になりました」
 私達は、母と桃花にそう言った。
 桃花は涙をボロボロ流していて、母も、その顔に笑顔を張り付かせてはいるけれど、涙目になっていた。
「着いたらすぐに連絡しなさいね」
 震える声で、母は言う。
「わかってるよ」
 私がそう返すと、
「じゃ、行くぞ」
 兄のその言葉の直後、車はゆっくりと発進された。
 私達も、母と桃花も、見えなくなるまで手を振った。



 少々喧しい音楽を奏でながら、車は走る。
 二十分程走っただろうか。
「――雪音、」
 突然兄に呼ばれ、外に向けていた視線をバックミラー越しに兄に向ける。
「……本当にいいのか? 優人ってやつの事は」
「ここで!?」
 夕海と美姫さんの声が重なった。それに対して、兄と私は苦笑した。
 本当にそうだ。もう二十分も走ったというのに。到着まで五時間掛かる事を考えると、まだたったの二十分だが。
 ――本当は今でも好きだ。やっぱりそっちには行かない。
 なんて言えば、今からでも戻ってくれるのだろうか?
 ……勿論そんな事は私も言わないけれど。もしも本当にそう言ったとしても、兄は絶対に引き返す事はしないだろう。けれど、念を押すかのようにそう尋ねてくれたのは、兄なりの優しさなんだろう。
「…………うん」
 長い沈黙の後、私はそう返事をした。
「ま、広島でいい出会いがあるかも知れないしな」
「……」
 兄のその言葉に、私は曖昧に笑う事で返事をした。
 車が走る。
 今日はとてもいい天気だから、景色もはっきり見える。山が綺麗だ。視界は緑が広がる。
 高速道路に乗った車から見るその景色は、動くのが速くて。この流れに、私も付いて行かなければ。早く、追いつかなければ。
 ……本当は、出会いなんかいらない。優人がいいよ。
 それはここにいるみんなが知っている事だろうけれど。だから兄は、先程あんな事を尋ねてきたのだろう。
 未練がましい……忘れろ。優人を本当に想うなら、忘れるんだ。自分の為でもある。
 ……だけど。だけど、私に忘れられる、だろうか。
 私に優人を忘れさせてくれる日は、訪れるだろうか。
 優人の事を考えて、涙が零れそうになった。
 最後にメールをしたのは先月の半ば。県外に行く事は一切言わなかった。
 それ所か、もうメールしないなんて言ってしまった。
 瞳の奥が熱い。喉も痛くて。何より、心が痛む。
 本当は、今すぐに泣き叫びたい程、辛く悲しい決断だった。





 優人を忘れるのに、私にはどれだけの時間が、必要だろう――……。
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