真実の永眠
47話 憤慨
 涙が、溢れた。




 私は。
 何が悲しくて、何が辛くて、何を伝えたくて、何を伝えられなくて、何に絶望して泣いているのか、自分でも解らなかった。こんな風になってしまったキッカケなど、ありはしないのに。何かが突然ぷつりと切れたように、涙が突然流れ出した。
 キッカケらしいキッカケがあるとするなら、それは昨日かも知れない。
 昨日は、三月十四日。そう、ホワイトデーだ。
 昨日一日、何事もなく過ぎて行ったように思う。いや、恐らく何事もなかったのが、それがいけなかったのだ。
 何かあって欲しいと、どこかで願っていたのかも知れない。何も要らないと思っていても、やはりどこかで何かを欲していたのかも知れない。
 けれどそれは、“物”じゃない――――。




 ――夕方。
 仕事を終え、部屋にはいつも通り、私と夕海がいて。
 突然泣き出した私に、少しばかり驚きの表情を見せた夕海は、けれど意味を瞬時に理解し、ただ黙っていた。
 仕事を終えた事で気の緩みが出たのか。今まで我慢していた何かは、本当にギリギリの所で留まっていたのかも知れない。
「……夕海は、……」
 私が呟いた事で、夕海は顔を上げてこちらを見る。
 忍び泣きが次第に嗚咽に変わり、感情の全てが表に出ようとする瞬間だった。
「……夕海は以前、優人の事、諦めちゃ駄目だって言ったよね……。私はそれが、嬉しかった……」
「……」
 夕海は視線だけを下に向けた。
「“諦めたらお姉ちゃんじゃない”って言葉、それが心強くて誇らしかった……何より、その言葉があったから、今まで頑張って来られたんだと思う……」
「……」
 夕海は、切なそうにどこか一点を見つめ、微動だにしない。
 私は、鼻をずずっと啜ると、少し息を吐いて尋ねた。
「夕海は、その台詞を、今でも言える……? こんな現状でも“諦めるな”って言える……?」
 言葉にして、私は蹲って泣いた。
 夕海の表情が辛そうに歪むのが何となく解る。
「……」
 夕海は、何も言わない。否、言えないのだろう。
 夕海の感情さえ汲み取れない程子供でもないし、自身の感情に溺れ過ぎてもいない。夕海が自信を持って言えないのは、二つの理由があるからだろう。
「……わからない……」
 長い沈黙の後、発せられたのは、そんな言葉だった。
 搾り出した細い声、まるで苦渋の決断をしたかのようだ。そんな夕海を見る事も、辛くなった。
「そっか……」
 そう言って、何とか曖昧にでも笑って見せる事が出来た。
 夕海の顔が、また辛そうに歪む。
「……正直、あたしにももうわからない……。“諦めるな、頑張れ”って言う事で、お姉ちゃんを追い詰めてしまうかも知れない……。それに……」
 途中で区切られた言葉。
 私はぐちゃぐちゃになった顔を少し上げて、夕海の顔を見た。
 その次に繋がる言葉が、聞かなくても解ってしまう程に……、
「――現状が、最悪過ぎる……」
 そう、そうなんだ。
 夕海が言った通り、言葉にしてくれた通り、僅かな希望さえ見えない程、現状は最悪なものだった。
 潮時、なのだろう。
 この状況で「諦めるな、頑張れ」などとそれでも言える者など、殆どいないだろう。恋愛だけじゃなく、夢を追う事だってそうだ。どうにもならない現状に、もう見切りを付けなければならない時期(とき)が来る。
 その時期をそれでも乗り越え、死ぬ程努力した末に、それでも夢絶たれた者は世界中にごまんといるのだ。私のちっぽけな恋愛など、もう、諦めなければならないのだろう。
「でも、諦められない事も、忘れられない事もわかってるから……もう諦めた方がいいとも言えない……お姉ちゃんの想いは叶うって信じたいし、叶わないと駄目なんだよ」
「……」
 私はまた顔を伏せた。
 涙が次から次に溢れてくる。
「……」
「……」
 私の嗚咽だけが部屋に響いた。
 もう、どうしたらいいか解らない。これ以上どうする事も出来なくて。ただ――辛い。
 もう、終わりだ。
 そう思った。
 好きだけれど、諦めなければならない時が来たんだ。
 毎日、何もする気が起きなくなって。心がどんどんボロボロになっていく。
 大好きなまま、嫌いにもなれなくて。優しい優人を知っているから、誰より優人を見てきたから。忘れるなんて、絶対に不可能なんだろう。
「……あたし、優人さんが許せない……」
 私は泣きながら、それでも驚きのあまり顔を上げた。
 夕海の言葉は衝撃的だった。
 私と目が合った夕海は、一瞬ばつの悪そうな表情を見せたが、でももう後には引かないという強い想いが伺えた。
「……昨日はさ、ホワイトデーだったじゃん。お姉ちゃんは別にお返しなんて要らないと思ってるかも知れないけどさ、普通何かお返しするでしょ!? 本当に誠実な人だったら! 今年であげたの三回目なんでしょ。だったら一回でも……“せめて今年は”って気持ちで何か考えたりしないのかな!?」
 今まで溜め込んできたものが一体どのくらいあったのか。それが手に取るように解る、夕海の強い口調。言わせてもらう、といった感じで、夕海は饒舌に言葉を紡ぐ。
「別に物じゃなくてもいいじゃん。せめてメールで……バレンタインのお礼や、お返し出来ない事へのお詫びの言葉とか……何でもいい、何かあってもいいんじゃないの!?」
 感情的になり、優人への怒りが露になる。
「私がいつも、ホワイトデーに限らず、メールの返事は要らないとか、お返しは要らないとか言ってたから……」
「だけどッ……!」
 私は視線を逸らし顔を俯けた。けれど。
「優人さんって……、優人さんって本当に優しい人なの!?」
 私は驚愕した。
 夕海が、



 泣いていたから。



「優人さんが本当に優しい人なら、何でちゃんとお姉ちゃんの事振らないの!? 曖昧な態度ばっかりでさ……! いい加減にしろよ!! って思うよ普通!! お姉ちゃんが優人さんを想って泣いてる事も知らないんだよ?!」
「……知らなくていいんだよ、そんな事……」
「……ッ……!」
 私も夕海も、ただボロボロと涙を流していた。
「私の気持ちは……周りから見ればただ重いだけだから……」
「重いんじゃない! “深い”んだよ! どれだけ深く想ってても、ストーカーみたいな事したり迷惑になる事もしてないじゃん!! ただ相手を純粋に好きなだけじゃん!!」
 殆ど泣き叫ぶように夕海はそう言った。
 私はただ、静かに涙を流す。
 夕海はまた、言葉を続ける。
「……優人さんは、全然優しくなんかないよ……。駄目なら駄目でハッキリ伝える事が本当の優しさなんじゃないの!? 曖昧にされたら余計傷付く事くらい少し考えたらわかるじゃん!! ……もう……傷付いてボロボロになる姿……見てられないよ……」
「優人は傷付けたくてそうしてる訳じゃないっ……! 結果私が傷付いていても、優人はただそれを知らないだけなんだよ……故意にやってる訳じゃないし、傷付けるとわかっているからはっきり言えないんだよ……」
「……ッ……!」
 私の言葉に解せない、と心底思っているのか、夕海の顔が怒りで歪んだ。
 それと同時に夕海が叫んだ言葉。
「何でそこまで優人さんの味方するの!?」
 そんなの、一つしかない。




「好きだからに決まってるじゃない……ッ!」




「――……!」
 夕海の瞳から、今まで以上に涙が溢れていた。
「……どうしてっ……そこまで……ッ……」
 そう言って、崩れるように泣いた夕海は、それ以上何も言わなかった。
 ただ、二人の嗚咽が部屋に響くだけ。それ以上も、以下もない。
 私が傷付く事で誰かに悲しい想いをさせてしまうのだと、この時知った。





 夕海が抱いた優人への怒り、十分に理解している。本当の優しさが何なのかって。それはきっと、夕海の言った事が正しいんだ。そんな事解っている。
 けれど、優人の、優人なりの優しさも、私が一番知っているから。
 優人は、基本的に何も言葉にはしない。辛い事、悩み事、誰にも相談しない事も知っている。だから、私が彼を理解してあげたい。居場所を失くしてしまったら、私が受け入れてあげたいし支えになりたい。
 誰かが優人を責めても、私は彼の味方でいたい。
 いつか優人が、例えば私を裏切ったとしても、私は彼の全てを許すだろう。全てを許し、それでも彼を好きでいるのだろう。
 今はもう、そんな事しか出来ないけれど。それでもまだ、出来る事が残っているなら。
 優人は優しくて純粋だ。私の大切な人。
 今も変わらずそう、私の瞳には映っているから。
 誰かが優人を責める気持ちも理解出来る。優しさを履き違えてはいけないのだと、私も思っているから。裏を返せば、私自身彼に対しそう思ってしまっているのかも知れないけれど。
 辛さに、寂しさを感じ、強くいる事も出来なくなるけれど、変わらない気持ちがここにある。
 相手を思い遣る気持ちは、絶対に忘れていけない。
 優人の所為、なんて事は何一つないんだ。
 真っ直ぐ想おう。そんな事しか出来ないけれど。そうでなければ、届かない。



 夕海、ありがとう。
 誰かを想って泣く涙ほど、美しい涙はないだろう。
 私の為に泣いてくれた事を、私は生涯忘れない。
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