真実の永眠
49話 一言
 五月になり、私と優人の距離は、ますます遠くなった。メールの返事も、殆ど返ってこない。
 忙しいから仕方ない。優人がゆっくり休めるのならそれでいい。そんな風に思う。――否、思おうとしている。本当は心からそうは思っていないくせに。
 返事がなくて寂しい、悲しい。そんな気持ちに支配されて、醜い感情まで芽生える私が、嫌いで仕方ない。自己嫌悪に陥ってしまう。
 どうしたらいいのか分からなくて。もう諦めようとした。諦められなくても、お互いの為に身を引かなければならなかった。だから――――……。

<いつもお疲れ様。疲れていると思うから返事はいらないです。今は頑張らなきゃいけない時期かも知れないけど、あんまり無理しないようにね。いつも応援してます>

 そんな風に、いつものようにメールを送った。
「今日も多分、返事は来ないと思う……」
「……」
 私の声は夕海に届いているだろうけれど、夕海は黙っていた。
「……もう、諦めた方がいいんだろうな……」
「……」
 やはり、何も言わない。
 夕海の顔を一瞥した。切なそうに何か考え込んでいるように見えた。
 放っておけば何か言うだろうと思い、私はベッドにうつ伏せになった。
「……」
「……」
 静かな部屋。二十二時を過ぎているから、外から車の音も殆どしない。テレビも点けていないから本当に静かな空間。外部からの音を遮断されているかのような感覚になる。
「――今日も、」
「……?」
 夕海が徐に口を開く。
 静かな空間だからか、妙に響く気がした。
 私は無反応で、その声だけを拾う。
「今日も返事が来なければ諦める、……ってのはどう?」
 一瞬重い身体を起こそうか迷ったけれど、僅かな動きさえ億劫に感じて、結局やめた。
 けれど、夕海の言葉に返事はした。
「……うん、そうしよう……」




 そうやって覚悟を決めたのに、――どうして。




 響くメロディ。
 鳴らなければいい。鳴らなければ全て終えられたものを。けれど、鳴って欲しい。本当はそう願っていたもの。
 この受信音は……。
「お姉ちゃん!!」
 夕海が嬉しそうに私を呼ぶ。私は咄嗟に身体を起こした。
「その着メロ、優人さんでしょ!」
 夕海がとても嬉しそうに、笑顔で私に向かって言うけれど、一瞬何が何だか分からなかった。
 優人からの、メール……?
 ――そうだ。この音楽は。
「……優人から、返ってきた……」
 状況を理解すると、涙が溢れてきた。
「よかったじゃん! 早くメール見てみなよ!」
「うん……」
 涙をぽろぽろと流しながら、優人からの返事を見る。

<ありがとう>

 涙がもっと、溢れてきた。
「夕海……、優人、……「ありがとう」って……」
 泣きながら、それでも嬉しくて笑うと、夕海も嬉しそうに笑った。
「うん、よかったじゃん」
「うん……よかった……」
 たった一言の返事。それでも、本当に嬉しくて幸せだった。
 ――返事がなければ諦める。
 そう決めて、覚悟を決めた直後の事だったから。
 優人がどんな気持ちで返事をしたのか。そんな事もう、どうだってよかった。ただ、嬉しかった。









 だけど、この先、









 明るい兆しなど、見えなくて。

















 五月×日。
 今日は、私の誕生日。二十歳を、迎えてしまった。
 正確に言うなら、法律上、昨日の午後十二時になった時点で二十歳を迎えた事になるのだけれど。まぁそんな事、どうだっていい。
 大人になっていくにつれ、増大する焦燥感。成人を迎えたのに、自分はまだまだ子供で。無知蒙昧。
 そういえば私、彼がいた事もないんだった。
 フッと、自嘲気味に笑みを浮かべる。
 憂鬱な朝を迎えた。何と虚しい朝か。今日は誕生日だというのに。


「用意出来た? 行こうか」
「うん」


 今日は夕海と出勤日が重なった。
 ゴールデンウィーク最終日だし、お店も忙しくなるだろうからって。
 憂鬱な朝を迎え、重い足取りで車へと向かう。





 今日は、夕海と一緒で良かった。





 素敵な誕生日を、迎えたいと思った。
 母から、桃花から(桃花は母の携帯電話を借りて)、友達からもお祝いのメールが届いた。
 祝う気があったのかなかったのかよく分からないが、零時を過ぎてまだ起きていた私に、「お前ももう二十歳かー」なんて兄に言われた。
 みんなからの言葉は、勿論、嬉しい。だけど、“祝って貰いたい”と一番願う相手からは、祝って貰えない。今日が私の誕生日だという事すら知らないんだ。教えてないから。
 涙が零れそうになって。
 仕事も終わり、社員専用の駐車場に停めてある自分の車に乗り込んだ瞬間、堪えていた涙が止め処もなく流れた。
 今日まで、胸中を巡る想いは、複雑でどうにも処理出来なかった。
 助手席に座る夕海は黙っていた。
 辛くて、今ではもう、毎日のように泣いていた。
 涙を拭いながら前方に目をやると、学生のカップルがいた。
 あんな風に……私もあんな風に、優人と歩けたら……。
「……ずっと、……」
 泣きながら、それでも何とか言葉を紡ぐ。
「ずっと……、あんなカップルが、……羨ましかった……」
 俯いていた夕海は、静かに顔を上げて、私が見ていたカップルを見た。
「……」
 何も言わない。
「……私には到底、無理な、事だから……」
「……」
 夕海はまた俯いた。
 溢れ出す涙を、ティッシュや袖口を使い拭うけれど、拭い切れない。
 涙とは、一体どれだけあるのだろう。堰を切ったようにそれは流れる。
 車内に私の嗚咽が響いた。
 普通の若者らしく、もっと遊べばよかったのだろうか。そうすれば、世界はもっと広かったに違いない。選択肢の豊富な、別の人生を歩む事が出来たかも知れない。“桜井優人”という存在など、ちっぽけに思えて、今よりずっと簡単に忘れられたかも知れないんだ。
 でも私は、この道にいる。本意なのか不本意なのかは分からないが、“それでも優人が好き”だという道の上に確かに立っていて、泣いているんだ。
 たった一人を想いながら、殆ど仕事仕事の毎日。努力以外の全てを放り投げて、それでも愛した年月を、今では「バカらしいのかも知れない」なんて思いそうになるくらい、今の自分は最低で、醜い。
「――昔、ね、……」
「……?」
 私が呟くと、夕海はまた、静かに顔を上げる。
「友達が、彼氏に……誕生日を、祝ってもらったんだって……」
「……」
 私は続けた。
「それで……ッ、友達が……」
 落ち着いた涙が、また溢れる。
「“今日は人生で一番素敵な日になった”って言ってた……」
「……」
 夕海が辛そうに顔を歪めるのが、気配で分かった。
「それが凄く……凄く羨ましかった……。好きな人に「おめでとう」って言われる事は……どれだけ幸せなんだろう……」
 溢れる涙。
 これ以上は、私ももう、何も言えなかった。
 夕海は始終、黙ったままだった。
< 62 / 73 >

この作品をシェア

pagetop