真実の永眠
53話 愛情
 あれから、どれくらい時間は経過したのだろう。否、何日過ぎた?
 どうしよう、何も覚えていない。
 ハッと意識が戻ったのは、何が切欠だったのかも分からない。いや違う。ずっと意識はあったのだろう。だけど、何も覚えていない。
 脳が思考停止状態だったのか。――とにかく、自分で思考する事が出来て最初に思ったのが、





 ああ、生きている





 それだった。











 ガチャリと、部屋と廊下を隔てている扉が開かれた。同時にそちらに目をやる。
 そこに現れたのは母だった。……ああ、そういえば仕事帰りに毎日ここへ来ていたかも知れない。それだけは何となく覚えている。というよりも、母の姿を見て思い出した、というべきか。
 私と目が合った母は、驚いているみたいだった。
 私はすぐに視線を逸らし、思考する。自分が何をしていたのか記憶にない。恐らく栄養を摂取する事は放棄していたのだろう。お腹が空いている感覚はないけれど、胃が空っぽだという感覚はかろうじてあった。
 水は飲んだのだろうか? それよりお風呂は、トイレは? 私はこの場から僅かでも動いたのだろうか?
 疑問が尽きない。
 ふと視線を感じて、顔を上げた。そこには、手に何かを持って、やはり驚いたようにこちらを見つめる母の姿があった。
 鬱陶しいと感じ冷たく睨み付けるが、母は動じない。それどころか、更に驚いた表情を向ける。
「何しに来たの? 帰って」
 そう冷たく放ったのだけれど、
「……よかった……今までは呼び掛けてもずっと反応がなかったから……」
 そう言って、安堵の表情を見せた。
 母の言葉に、私は久しく感じられなかった“驚き”の感情を得た。
 ああ、それ程までに私は……。
「……ずっと、何も食べてないでしょ? 痩せたね、雪音。オムライス作ってきたから食べられそうならこれ食べなさい」
 ああ、そうか。意識が戻った切欠があるとするなら、きっとこのオムライスだ。この身体はやはり栄養を欲していたのだろうか。恐らく母が入ってきた瞬間に、私の嗅覚が無意識に働いたのだろう。
 母はしゃがみ込み、白く丸い小さなテーブルに、それをコトッと置いた。
 ぼんやりとそれを眺める。ラップが僅かに曇っていて、それはオムライスがまだ温かい事を示していた。






 何故こうも、泣きたくなる






 お節介が煩わしく感じていた。今も、全てを許し愛せる訳ではないけれど、私は差し出されたオムライスを、母の厚意を、無下にする事はしなかった。
 ただ静かに涙を流す。
 それを拭う事もせず、嗚咽を漏らす事もなく。双眸から、雫が零れていくだけ。
 母はきっと、辛そうな表情をしていることだろう。
 何故そこまでする? 放っておけばいいものを。毎日通って、何の反応も示さない私なんかに呼び掛けて。
 何故、――私の好物を持ってくるんだ。
 母がそんな事をしなければ、私は孤独に押し潰されて、楽に死ねたのに。
 母がそんな事をしなければ、私は。






 温もりを、愛情を、感じる事もなく楽に死ねたのに。






 嗚咽を押し殺す事が出来なくなって、結局思い切り泣いた。
 涙が無限に存在する事を、この時私は知った。
 泣いている間、母は黙ってずっとそこにいた。












 漸く泣き止み落ち着きを取り戻した私は、すっかり冷め切ったオムライスを、口に入れた。
「……美味しい……」
 そう言って微かに笑みを見せた私に、
「笑った顔、久し振りに見た」
 母はそう言って心底安心した顔付きで言った。
「……そう、だったかな……」
 そう言って、これまでの自分を振り返った。……そういえば、確かに泣いてばかりいた。
「私……、何日反応なかった……?」
「三日間よ。……今日で四日目になる所だったけど、今日はこうして反応してくれたから」
 三日間か……そう小さく呟いた。
 思ったよりは短い、母から聞いて最初に思ったのがそれだった。母にとっては、地獄の三日間だったかも知れないけれど。
「……私、三日間お風呂入ってないかも知れない……どうしよ」
「気にするのそこなの?」
「ふふ……」
 絶妙な突っ込みに思わず笑みが零れた。私はまだ、こうして笑う事が出来たのか。母もクスクスと笑っていたが、突然その笑みを消した。
「“かも知れない”って……三日間、自分が何をしたか覚えてないの?」
「うん……」
 私の返事を聞き、母の顔は再び辛そうに歪められた。
「ご飯は多分食べてない……水を飲んだのかも分からない。トイレには流石に行ったのかな? 生理現象だし、無意識に動いたかも知れない。でも、やっぱり多分、お風呂には入ってないと思う。普段一時間入ってるし、流石に一時間呑気に入ってたら記憶に残ってると思うから……」
「そう……」
「お母さんが私の様子を見に来てた時、私は何してたの?」
 問うと、表情の暗さが益々深くなった。今にも泣き出しそうな表情だ。何をしていたと言うのだろう。
「……何もしてないわ。そう、文字通り何もしていないの。仕事終わりにここに来たから、部屋は真っ暗で……暗い部屋の隅で、壁に凭れ掛かってただ“そこにいた”。……ううん、何もしていないんじゃないわね。ただそこで生きていた。呼吸をしていただけ……」
 話しながら、母は口元を押さえ、静かに涙を流した。そして続ける。
「魂が抜けている状態に見えた……。正気のない顔付きだった……」
「……」
 何も言えなかった。母を見て私は、生涯記憶に残る程の辛い想いを母にさせてしまったと気付いた。いつか笑い話にもならない程、それはきっと、どこまでも深い。
「……でも、」
 俯けた顔を静かに上げ母を見た。
「元気にはなれなくても、こうして話す事が出来てよかった。雪音がずっとあのままなら本当にどうしようかと思ったけれど……」
 そう言って母は笑った。






 誰かの支えなしで、人は生きてはいけないのだと、この時身を持って思い知らされた。
 空虚な三日間で、私が死を望んだのか記憶がないから今となっては知る由もないけれど、誰もこの家に足を運ばなければ、私は命を絶っていたかも知れない。そしてそれは、きっと無意識に。
 無意識が一番怖い。だからこそ母は、毎日ここへ来てくれていたのだろう。
「……ありがとう……」
 母が帰った後に小さく呟いた感謝の言葉は、誰の耳にも届かなかったけれど、今日この日この場所この胸に、確かに刻まれるだろう。
 そして、私の為に作ってくれたオムライスの味を、私は生涯忘れる事はないだろう。それは世界中のどんなものより、温かくて優しい味だった。
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