愛を待つ桜
「いただきます!」


4畳半のキッチンに置かれた食卓セットを3人で囲んだ。

目玉焼きやウィンナーが並んでいる。
テーブルは昨夜とは違い、本来の用途に使われていた。
悠は子供用の椅子に座り、オムレツのケチャップを顔につけながら嬉しそうに口に運んでいた。

夏海ひとりなら、急いでスーツに着替え、メイクもほどほどに飛び出していただろう。
でも、子供がいればそう簡単にはいかない。

聡がシャワーで妄想をふくらませ、一喜一憂している間……。

彼女は悠を着替えさせ、お着替えや必要なものをバッグに詰め込み、3人分の朝ご飯を作り、尚且つ、自分の仕度も済ませたのである。

確かに、2~3個業務を掛け持ちしても、この朝の戦場には遠く及ばないだろう。


聡のほうは、ここ数年は朝食など口にすることもなく、出社後にコーヒーを飲む程度だった。
しかし、そんなことを言う隙すら与えて貰えない。
朝の主導権は明らかに夏海の手にあった。

そのまま、コーポの来客用のスペースに停めておいた如月の車で、3人揃って家を出る。


夏海のコーポは江戸川区の葛西駅から10分程度の距離だ。
保育園はコーポから駅までの中間に位置している。

聡は保育園の前で車を停め、夏海たちが園に入っていくのを、窓を開けて見送った。
すると悠が振り返り、「いってきま~す」と、聡に向かって大きく手を振る。


「あ、ああ、気をつけてな」


咄嗟に手を振り返したが、何と答えたらいいのか判らず……ボソボソ口の中で言うだけだ。
そんな声で夏海たちまで届いたはずもないが、見送られたのが嬉しかったのか、悠は満面の笑顔で更に大きく手を振り返してくれた。


このとき、まるでヒーターがついたように、聡の胸は温かくなり、彼の顔にも自然と笑みが浮かんでいた。


――3年前、夏海の嘘に騙されたフリをして彼女を妻にしていれば、あの子は今ごろ、自分をパパと呼んでいただろう。

上手く言葉にはできない。
だが、想いは溢れんばかりに、聡の体中を駆け巡った。


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